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その8 共同体としての家。
パブリックな家ということで言うと、
僕が小さな頃住んでいたのは、
アパートですらなくて、
大家さんの家の中のひと間を賃貸に出してた、
長屋のような家でした。
玄関は別々だったんだけど、
トイレは1コしかなくて、
お隣りさんとうち、2つの家族で共有していたんです。
そして、両家の間に鍵はない。
そうするとどういうことが起きるかというと、
隣の家と自分の家の境界線がなくなるんです。
僕も隣に自分のうちみたいに行ってたし、
隣の子もよく入って来てて。
いわゆる味噌、醤油借りるみたいなことも、
当然日常茶飯事だったし。
一人で留守番してるとき、
カッターで手を切っちゃったことがあって、
ギャーギャー泣いてたら隣のおばさんが来てくれたり。
自分ちの家族だけで完結してなかったと思うんです。
昔の家って。
いま、シェアハウスというものが
よく言われていますよね。
近い感じでしょうか。
いまのシェアハウスや、コーポラティブハウスが
そうかというと、ちがうと思うんです。
昔の長屋は経済状態や境遇が
きわめて近いものだった。
いま巷でもてはやされてるシェアハウスっていうのは、
ぼくは疑問を感じるんです。
経済合理主義で考えると確かに分かりますよ。
キッチン大きいとこでみんなシェアしたほうがいい、と。
ただ、それだけだと、消費活動に根付いた価値観を
共有してるだけなので、メンバーが交換可能なんですよね。
共同体ってたぶん、交換不可能なはずなんですよ。
だから、シェアハウスの可能性っていうのは、
交換不可能なぐらい何か確実なつながりがないと
一過性のブームで終わってしまう気がするんです。
世代間を超えていかないと、と思う。
コーポラティブハウスもそうですよね。
ワイン好きな夫婦、おんなじぐらいの収入で、
おんなじぐらいの子育てをしてる夫婦を4世帯集めれば、
4人で大きな敷地を買って、4分割して4家族で住む。
共同の庭、共同のワインセラーとかそういうことは、
もちろん可能です。
ソーラーパネルだって、初期投資を1/4にすれば可能だし、
そういう合理的なところはいっぱいある。
ただ、「仲良し」が前提ですよね。
その「仲良し」っていうのもまた難しいでしょう。
ネットワークが崩れた瞬間に、どう対処するかっていう
セーフティーネットをちゃんと考えた上で、
シェアとかコーポラティブをしないと。
合理的っていうのが、共同体には合わないですよね。
わたしは村育ちですけど、
病気になって働けなくなっちゃったおうちとか、
お父さんが亡くなっちゃったおうちとかは、
村のみんなで、ごくあたりまえにサポートします。
同じ村なら家族、みたいな気持ちがある。
ギブアンドテイクじゃない関係なんですよね。
当然気持ちとしてはありますよ、
助けてもらったからこんどはなんかしてあげなきゃって。
でも、契約でもなんでもない。
僕はそれを、内田先生に言ったことがあって、
凱風館がうまくいくのは、合気道っていうベースがあって
共同体が作られてるからなんだと。
合気道っていうのは勝ち負けもないし、競わない。
一生やり続けられる武道なんですね。
ってことは、そこには教育的な要素が当然ある。
師範が弟子に教え続けるわけですから。
その師範が例えば亡くなったとしても、
一番弟子が次の師範になる。
代々の教育ですから、終らない。
それが、凱風館を凱風館たらしめてるんですね。
僕はほかにどういうもので共同体が作れますかって
内田先生に聞いたんです。
じゃ阪神ファン同士が集まって、
大きなスクリーンをみんなで共有する部屋をもつ
コーポラティブハウスはどうか。
阪神タイガースの試合が
巨大スクリーンで見られる部屋がある、って、
一見成り立ちそうじゃないですか。
でも内田先生は、それは絶対ダメだ、と。
なぜなら、息子が巨人ファンになる可能性がある(笑)。
おおー。
共同体っていうのは、やっぱりそういう、
世代や時間を内包したものでないと。
凱風館は、合気道の次の師範は決まっているんですか。
決まっているんですよ。
しかも、合気道だけじゃなくて、
凱風館にはジュリー部だとか、マージャン連盟だとか、
いろんな、スピンオフする共同体があるんです。
内田先生はマージャン連盟の場合は
総長っていう肩書きなんですけど、
次期総長はもう既に決まっているんです。
さらに言うと、内田先生が亡くなったあと、
凱風館は、お子さんが継がないことになっているんです。
えっ!
信用していないということではなく、
相続するにあたって売らざるを得ないこともある。
それを避けたいから法人にするわけです。
じっさい、合気道の道場で、
代々がうまく渡らない例を
内田先生はいくつか見てきたんですね。
同族経営って、上手くいく場合もあれば、
そうではない場合もある。

そして会社も、
会社という共同体を維持する方法として、
おんなじ似たもの同士だけが集まるんじゃなくて、
異物をも自分たちのメンバーとして受け入れるという、
共同体としての力強さみたいなものがあれば、
その場所としての家っていうのは
必然的に変わってくるだろうし、
そうなったときに、プライベートだから
俺の家に来るなとか、こっから先は‥‥とかじゃなくて、
新しいパブリック性みたいなものが
出てくるんじゃないかな、とは思うんです。
でも、じゃぁ、新しいパブリック性って何か?
というと、いまのシェアっていうところだけじゃない
気がするんですけどね。
(つづきます)
2013-02-15-FRI
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