元ゲーム雑誌の編集者で、
テレコマンとしても活動している永田ソフトが
ここでは永田泰大さんとして
『MOTHER1+2』をプレイする日常をつづります。
ゲームの攻略にはまるで役に立たないと思うけど
のんびりじっくり書いていくそうなので
なんとなく気にしててください。

9月2日

僕のマジカント

スリークの街にいるゾンビがずっと気になっていた。
ゾンビは主人公によって退治されて、檻のなかにいる。
何度その街を訪れても、ゾンビはずっとそのままだった。
話しかけると、ゾンビは悪態をつく。
それは、とってもユーモラスなセリフだ。
だから、檻のなかにいるゾンビは
極端に不幸な雰囲気を醸し出しているわけではない。
けれど、ずっと気になっていた。
ちょっとだけだけど、心のどこかに引っかかっていた。

1ヵ月まえに前作をクリアーした僕は、
いま訪れたマジカントがどういう場所なのかを
少しはわかっていた。
完全に理解しているかどうか自信がないけれど、
その場所の性質のようなものは、
おぼろげながらとらえていた。

その場所の主体がどこにあるかは前作と違う。
けれど、性質としては同じだと僕は感じた。

不思議な世界をまどろむように歩きながら、
僕はそこに棲むひとつひとつを確認していった。
ちりばめられた記号のいちいちから
僕が知らないけれど知っている、
奥底の出来事が染みこんでくるのを感じた。
こういう場所が、誰にもあるのだろう。
僕にも、彼にも、あなたにも。

断片的なかけらを手繰りながら歩いていたら
そこにゾンビがいた。
話しかけると、僕に恨みごとを言った。
それで、おかしな話だけれど、僕はほっとした。
僕のなかに、やはりそれは残っていたのだと思った。

ここでいう僕が、僕個人のことなのか、
ゲームのなかの主人公のことなのか、
うまく判断することができない。
どっちでもあると言い切るのも少し違うような気がする。
一方が器で一方が入り込んでいるという理屈も
ぴったり言い当てているとは思えない。
そもそも、そこをはっきりさせようというつもりが
僕にはあまりない。
ともかく、僕は、僕のなかに、
恨みごとを言うゾンビが残っていることに対して
わずかばかりの安堵を覚えた。

ゲームのなかを進んでいく僕は
なんだか何も考えていないように見える。
ゲームの主人公としての僕が
プレイヤーが感情移入すべきキャラクターとして
セリフを与えられていないということも
影響していると思うけれど、
個性的な人たちの棲む世界を僕が進むとき、
主人公としての「僕」も、
プレイヤーとしての「僕」も、
視点によってはひどく表層的に思えてしまう。
極端な言いかたをすると、
頼まれたままに世界を救おうとしているような、
ほんとうに思っていることがよくわかっていないような、
そんな気分にもなってしまう。

ところが僕のなかにはゾンビがいて、
昔の小さなことをなぜだか妙に詳しく覚えていて、
よいことだけでなく悪いことも考えていて、
家族も友だちも怪物も風景も
草花も動物も食べ物も思い出も
そこにきちんとあった。
結果的に、訪れた僕はそこでほっとしたのだ。

1ヵ月まえ、前作のマジカントを訪れたとき、
僕はそこがどこだかまるでわかっていなかった。
だから、そこにいるフライングマンに
話しかけることをためらった。
けれど、いま僕はこの場所の性質を
ぼんやりとではあるけれどもつかんでいる。
僕は、きちんとフライングマンに話しかけた。
それは僕に含まれる一部であろうと僕は考えた。
もちろん、それは個人的な解釈だ。
考えかたは人の数だけあるのだと思う。
僕は、献身的な彼を自分のなかの存在だと感じたので
きちんと話しかけ、助けを求めた。
彼が倒れたときは、きちんと墓碑銘を読んだ。

そして僕は僕のなかで僕の声を聞く。
その出会いは大きく僕を成長させる。

向かおう。サターンバレーへ。

2003-09-03-WED