元ゲーム雑誌の編集者で、
テレコマンとしても活動している永田ソフトが
ここでは永田泰大さんとして
『MOTHER1+2』をプレイする日常をつづります。
ゲームの攻略にはまるで役に立たないと思うけど
のんびりじっくり書いていくそうなので
なんとなく気にしててください。

8月20日

かけられない電話

主人公は電話を持っていて、
それはゲームのなかでさまざまな役割を果たす。

パパがメッセージを送ってきたり、
各種の配達物が届かないことを知らせたり。
発明が得意なふたりの少年が
重要なアイテムの発明を知らせることもあるし、
メガネの少年の古い友だちが
優しい電話をかけてくることもある。

主人公の持つ電話は、
ゲームのなかで「遊び」の機能を持ったり、
物語を「進行」させる役割を担ったりする。
いろんな不都合をこの電話によって
回避している部分もあり、
その意味ではとても重宝する
アイテムであるのだと思う。

ところがそれはゲームのシステムを考えるなら
大きな矛盾をはらんでいる。
主人公たちは、セーブを電話によって行う。
つまり電話は主人公たちが休息することのできる
安全な場所に設置されるべきものであり、
主人公たちが持ち歩けるのは
じつは具合の悪いことなのである。

セーブポイントである電話は、
タフなダンジョンを抜けた先にあるからこそ
ありがたいのであり、
いつでもどこでもセーブできたのでは
ゲームの緊張感を著しく損なってしまう。

『MOTHER2』はこの矛盾をどう解消しているのか。
それはかなり乱暴な方法である。

主人公が持ち歩く電話は、
「通話を受けることはできるけれども、
こちらからかけることはできない」
ということにしたのだ。

冷静に考えるなら、これはずいぶん勝手な話である。
当時、携帯電話が普及していなかったことは
理由にはならないと思う。
「かかってくるけど、かけられない」というのは
ふつうに考えればおかしなことなのである。

誤解を恐れずにいえば、
それはつくり手の都合であるのだと思う。
「遊び」の意味でも、「進行」の意味でも、
つくり手は主人公に電話を持たせたい。
けれど、そこからかけられては困る。
そこで、つくり手は、
「そういうものだと納得してね」
ということにしているのだ。

ふつうなら、この乱暴な方法は
いくらかプレイヤーを興ざめさせる。
「おいおいそれはそっちの都合だろうよ」
ということになる。

けれど、『MOTHER2』ではそうならない。

『MOTHER2』はそこに
とんでもない解決法をもちいている。
コロンブスの卵と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいくらいの方法だ。

電話の名前が「じゅしんでんわ」というのである。
「じゅしんでんわ」というくらいだから、
受信しかできないのである。
そこに意義を申し立てるのは、
プレイヤーとして野暮であると僕は思う。

つまり、『MOTHER2』は、
どうにも打開策のないどんづまりの難題を、
ネーミング一発で解消しているのだ。
なんとも乱暴な話である。
そして乱暴ではあるけれども、痛快な話である。

そこで僕が強く思うのは、
このゲームが完全な合議制でできていたら、
こんなアイデアは成立しないだろうということだ。

「じゅしんでんわという名前にすれば
プレイヤーも納得するのではないか?」と、
誰かが提案したとしても、
「いや、そういうわけにはいかんでしょう」
となるのがふつうだと思う。
どれだけ理解し合っているチームだとしても
満場一致になるとはとても思えない。

完全な民主主義の現場からは、
おそらく「じゅしんでんわ」は生まれてこない。
『MOTHER2』でそれができているのは、
たぶん、ゲームの真ん中にきちんと暴君がいて、
「それは俺が責任とるわ」と宣言しているからである。
だからこそ、遊びはより自由になるし、
ゲーム全体が誰かの意志によって統一されて、
プレイヤー個人の心に訴える。

そしてもちろん、そういった乱暴な方法は
単独で機能するわけではない。
たとえば主人公が持っている武器が
「マグナム44口径リボルバー」で、
乗り物が「ハーレーダビッドソン」だったら、
「じゅしんでんわ」というわけにはいかない。

暴君が繊細な心配りでもって、
世界のあちこちに乱暴を配置しているからこそ、
「じゅしんでんわ」はプレイヤーに
受け入れられるのである。
「タコケシマシーン」があって、
「エスカルゴ運送」が汗をかきながら走ってきて、
「あなぬけネズミ」がグッズ扱いされるからこそ、
プレイヤーは「じゅしんでんわ」を認めるのである。

そういうふうに考えてみると、
『MOTHER2』が特別なゲームであるのは
とても必然的なことなのだろうと僕は思う。

またややこしい話を長々書きました。
ようやくピラミッドを抜けました。

2003-08-21-THU