元ゲーム雑誌の編集者で、
テレコマンとしても活動している永田ソフトが
ここでは永田泰大さんとして
『MOTHER1+2』をプレイする日常をつづります。
ゲームの攻略にはまるで役に立たないと思うけど
のんびりじっくり書いていくそうなので
なんとなく気にしててください。

8月1日

大人と子どもと、より小さな子ども

『MOTHER』の主人公たちは
年齢的に子どもであるから、
大人たちからしょっちゅう子ども扱いされる。
開発者本人が認めているように、
これほど主人公が小バカにされるゲームは
ほかにないのではないかと思うほどだ。

そういった、ゲームのなかで
「子どもとしてあしらわれること」ことが
『MOTHER』の大きな個性のひとつではあるけれど、
僕が興味深く思うのは、主人公たちが
そこで「もっとも低年齢な子ども」として
扱われてはいないということである。

主人公たちは子どもであり、
大人たちから文字どおり子ども扱いされるわけだけれど、
いっちばん下のみそっかすとして扱われるわけではない。
主人公たちは子どもだけれども、
同時にお兄さん、お姉さんとしての役割も担っている。

具体的にいうと、
始まりからすでに主人公には妹がいるし、
女の子の友だちは幼稚園で園児に憧れられている。
街のあちこちには野球帽をかぶった子どもたちがいるし、
舌っ足らずな言葉で話す子どももよく現れる。

またしても細かい話で恐縮だけれど、
そういうふうに、主人公たちが
上の年齢の人と下の年齢の人に
きちんとはさまれていることは、
ゲームのなかにある世界を表すときに
とても重要であるのではないかと僕は思う。

ここで完全に趣味の話をするが、
僕は『はじめてのおつかい』という
テレビ番組を非常に愛している。
要するに、幼児ががんばっておつかいするさまを
カメラで誠実に追っていく番組なのだけれど、
涙もろい僕はそれを観るとき高確率でオイオイ泣く。
10回観て10回泣くほどその確率は高い。
というか、12回観たら12回泣く自信がある。
かように『はじめてのおつかい』は
すばらしいのだというのは完全に余談であって、
本来ここでいいたいのはそこに
兄弟や姉妹がふたりして登場するときのことである。

『はじめてのおつかい』に兄弟や姉妹が登場するとき、
お兄ちゃんやお姉ちゃんはとてもがんばるのである。
その具体的な姿について描写しはじめると
また際限のないことになってしまうので慎むけれど、
(兄の健気さが胸を打つ名作『雨の渡し船』!
坂道を上る姉の強さが光る『母のゴミ箱』!)
弟や妹がいるとき、わずかながら年長者たる彼らは、
ひじょうにがんばるのである。なんというか、
そこで彼らがとる行動には、社会性があるのだ。

もちろん、そうはいっても彼らは幼いから、
わずかに感じ取る社会性に沿って
完全に模範的な行動ができるわけではない。
けど、頭では正しいことがわかっていて
なんとかそこに近づいていこうとがんばる。
とくに、弟や妹がそばにいるときには。

『MOTHER』や『MOTHER2』で、
大人たちから子ども扱いされる主人公たちが
年齢的に最下層でないことは、
あの世界で過ごすときのムードに
やんわりと作用しているのではないかと僕は思う。

たとえばママに見送られて家を出るとき、
その家に幼い妹が残っているだけで
旅立ちの気持ちは大きく違う。
出会う人たちが誰も彼も年上でないということは
旅を進めるときの決意や使命感を
よりたくましくするように思う。

脱線混じりということでつけ加えると、
『MOTHER』における「より小さな子ども」
の表現はとても興味深い。

このゲームでは、子どもである主人公たちと
大人である街の人たちは、絵として大きさが変わらない。
ママと主人公が並んだときも、
背の高さはほとんど同じである。
大人も子どもも、絵としては同じような記号で表され、
言動や振る舞いの違い、地位や職業の演出などによって
両者の年齢差は表現される。
多くのものを記号で表現する
ロールプレイングゲームとしては、
それは当たり前なことである。

けれども、
『MOTHER』と『MOTHER2』に登場する
「より小さな子ども」は、
絵として実際に主人公たちよりひと回り小さいのだ。
年齢差としては数歳しかないのに、
主人公たちと「より小さな子ども」は
主人公たちよりもわざわざ絵として少し小さい。
年齢差も身長差も
大人たちとの差異のほうが大きいはずなのに、
見た目の差異は「より小さな子ども」のほうが
絵として丁寧に再現されている。

深読みがすぎるかもしれないけれど、それは、
大人に小バカにされ続ける小さな主人公たちに
「守るべきより小さな子ども」を
しっかりと与えたかったからではないだろうか。

ゲームの進行を大きく報告しておくとすると、
いつの間にか僕らは3人組になっているのです。

2003-08-02-SAT