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第91号 転機のとき。
※最近本紙に登場の 「転機のとき」コーナーの
源になった、デリバリー版内でのメールの数々をどうぞ!
あなたの「転機」も、教えてくださいね!!!

・こんにちは。
私は5人兄弟の末っ子。
母は、私を生んでまもなく病に倒れ、
半身麻痺となりました。
それでも健康なお母さんと変わりなく
家事に育児をこなしてきました。
彼女ももうおばあちゃんになり、
体もすっかり弱くなってしまいました。
先日その母と旅行に行ったとき
大人になってからは初めて、布団を並べて寝ました。
おそらくこれは最初で最後の旅行。
それは、私も母も感じていたのだと思います。
しばらくして、母が話しはじめました。
「今は平和な時代で良かった。
子供達が無事に成長して、独立して」
「あなた達はみんな一人ずつ抱き方を変えて育てたのよ。
もし、母親の私より先に戦争で死ぬことになれば
どこにいても、駆けつけて抱きしめてあげるつもりで。
たとえ目が見えなくてもその抱き方で母親が解るように」
青春時代を戦争のまっただ中で過ごし、
人との死別を身近に体験してきた母。
その愛情の深さが、痛いほど胸にしみました。
これから母になる私も、
その心を受け継ぐことができますように。
そして、もう二度と、「子供が死んだ時」なんて
状況を考えるような時代がきませんように。
(ひよっこ)

・小学4年生の息子には好きな女の子がいて、
でもまだ好きって言う気持ちも良く分からない年齢。
その彼女が、年末に転校して行ってしまいました。
その時はさびしいけど特に泣いたりしていなかったので、
まあそんなもんかと思っていましたが、
昨日の朝、彼は不安な顔をして
「ママ、ぼくね、どうしてかわからないんだけど
特に意味のない内容なんだけど、
毎晩毎晩Aちゃんの夢を見るんだ。
これってどういうことなんだろう?」
と言ってきました。
彼はマイペースな子で
大人ぶって背伸びしたりすることの出来ない子で、
自分の気持ちに頭がついていけてないんだなぁ、と
ちょっとキュンとなりました。わたしが
「それはさびしいからどうしてるかなぁって
思って、夢を見るんじゃないの?」
といったら、「そっか」と納得してました。
いつもは少女たちに少年たちは子ども扱いされて、
実際私も、男の子って
なんて幼稚なんだろうって思ってましたが、
今回、男の子のほうが純粋なんだなぁと実感しました。
これは、大人になっても当てはまることですよね。
(きゅう)

・大学生です。
今日、彼氏と別れました。もう彼氏と別れたからって
バイトにも影響しちゃうとかいう年でもなくなりました。
嫌いではないのだけど、いっしょにいたら
お互いにオトナになれないので別れました。
これからは勉学に励むつもりです。
自分のやりたいことをすると人の2.5倍ほど
授業を取らなくてはならないようですが
進路も恋愛もなぁなぁに生きてきた自分にとって
今が、がんばり時なんだと思います。
このまま行く先流されるか
夕焼けの教室で話したことがほんとうになるのか。
「なんとなく、なるようになる」
が座右の銘だった日は終わらせます。
自分がする。自分のこと。
出来る女ともてる女は両立しないことが多いけど、
しっかりした人間になってみます。
(sana・19なりたて)

・ぼくたちには未来がないと終わりにしてしまうのか。
それともお互い大きく傷つくかも知れないことを
覚悟して前へ進むのか。
デリバリー版に掲載されていた「はち」さんのメールの
「若いときと違って恋愛がただ単純に
好きってだけじゃすまなくなってく」
という言葉を聞いて、そんなことを考えました。
ぼくには今好きな人がいます。
お互い彼氏彼女もいなくて、週に1回は会ってますし、
ほぼ毎日電話で話したりしており、
はたから見れば付き合っているように思えますが、
その人がぼくの彼女であるとは、
はっきりとは言えない微妙な関係です。
ぼくは彼女が本当に好きです。
でも彼女がぼくを本当に好きかというと
まだそうでもない‥‥彼女は、
「わたしには真剣に結婚を考えてくれる人が必要」
と言います。もちろんぼくは真剣です。
でも彼女には信じられないと言うのです。
彼女がぼくを信じられない理由の一つに
国籍の違いがあります。
ぼくは今仕事で彼女の国に住んでいますが、
彼女の国では日本人はお金持ち、
日本人と結婚すれば幸せになれると思っている人も
多くいるといいます。
しかし、だまされているんじゃないかという疑い、
あるいは周囲の反対などいろいろな問題があります。
実際、ぼくの両親に話をしてみると、
ダメの一点張りで、話し合う余地すらありません。
両親が反対していることを、
ぼくはまだ彼女に言えずにいます。
今一番恐れているのは、結婚できないとなると、
もう今までの関係が
壊れてしまうのではないかということです。
彼女はよく言います、
「愛してるだけで結婚しても幸せにはなれない」と。
その時は寂しいこと言うなぁとも思ったけど、
実際はそうなんだろうとも理解できます。
そんな時のデリバリー版のはちさんのメールでしたので、
状況は違えどその言葉に共感してしまいました。
お互いにとってどうすれば幸せになれるんだろう?
こんな時はおそらく何も考えず今の関係のままでいるのが、
一番楽で幸せなのかもしれません。
でも、ただ考えてても仕方ないもんなぁ。
(ま)

・ぼくは社会人3年目に突入するところです。
やっぱり、いろいろ考えだしはじめました。
ぼくの仕事は次々と新しいモノをつくり出すものですが、
夢を描いて入ったモノづくりの世界の実態は悲惨なもので、
消費ということを改めて考えさせられました。
消費者の為とか言いながら利益のことしか考えない
企業の姿勢を目の当たりにしてショックを受けました。
「あぁ、これが日本をダメにする原因か」と。
当たり前のことをやるパワーが必要なんだと強く思いますが、
具体的に何をやるべきかは、ぼんやりとしか見えていません。
そんな漠然とした中で
「本当にやらなくてはいけないこと」が見つかった時、
ぼくの転機が訪れるのだと信じて、頑張りたいと思ってます。
(d)

・今年で28歳になりますが、この春転職を控えています。
転職先は、以前勤めていた会社の同僚が興した
できたての会社。
新卒で勤めた以前の会社は、
医薬品のマーケティングリサーチを行なう会社で、
「熾烈な新薬開発、販売をおこなう製薬会社の依頼を受け、
医師をはじめとする医療従事者たちに、
特定の疾患の治療状況や薬の使用状況をインタビューし、
その結果を製薬会社に提出する」
という、かなりニッチな、陰の業務を行なうところでした。
いわば製薬会社の孫請けくらいのポジションの仕事でしたが、
多くの医師たちから貴重なお話を伺える刺激的な仕事でした。
ただ、一方で、
クライアントである製薬会社と
協力していただく医師のはざまにいるので、
非常にストレスフルでハードな仕事でもあり、
スタッフがひとりまたひとりと体調を崩していきました。
当時、20歳ソコソコの私は、体力こそ持ちましたが、
過剰な仕事の責任に追い込まれる毎日で、
私は待遇の悪さを言いわけに違う会社(メーカー)に移り、
まる3年が経とうとしていたんです。
移ったメーカーはかなり大きな会社で、私は広報として
上司と同僚に恵まれ、以前のような果てしない残業もなく、
まさにぬくぬくと働いてきました。
そんな中、前の医薬品リサーチの職場の同僚が反乱を起こし、
同業で新しい会社をおこしたことを知らされました。
私にも誘いがかかりましたが、
今の居心地の良い職場を離れる理由も勇気もなく、
たまに彼女達を手伝う程度でつながりだけは保ってきました。
それでも彼女達は私を誘いつづけてくれ、この度、
前の会社との訴訟問題(突然な独立だったため)にも
決着がついたのを機に、正式なオファーをくれたのです。
そして私は、ついに転職を決心しました。
前の会社にいたときの私は、まさに遊びたいさかり、
いかにして遊びに行こうかということばかり
考えていました。
お世辞にも「いい仕事を目指す」姿勢なんて
なかったんです。
それでもこうして新しい職場に誘ってくれる
彼女たちの存在に、
改めて自分を考え直してみたとき、
デキがいいか悪いかは別としても
とにかく一生懸命だった当時の私の姿勢は、
周りの人たちに伝わっていたんだなと
ありがたく思いました。
当時ただの下請けだった医療マーケティング業界も、
私がお休みしている間に大きく様変わりしたようです。
政府・医療従事者・製薬会社・患者の4者関係は、
さまざまな構造的問題を抱えており、
変化を必要とされています。
だけど、何かを変えると誰かがソンをする、
そんな閉塞的な状況に陥ってしまっているようです。
4者のどこにも属していない、
ニッチでフットワークの軽い我々にこそできる
価値の提供があるのではないかと野望を抱いています。
30歳を前にして、すばらしい仲間に誘われて、
本気で取り組める仕事に出会えました。
(ゆ)

・わたしの最初の転機は、
父が脳内出血で倒れた21歳の時です。
父が倒れたのは、寒い11月11日でした。
元気で生真面目だけが取りえの父が、
仕事場で突然倒れました。
当時わたしは就職したばかりでした。
携帯電話のない時代だったので連絡がつかず、
わたしと弟が病院に駆け付けた時には
緊急手術が成功した後だったのですが
それでも「ここ数日が山場」とのことでした。
わたしは姉と弟に挟まれた次女で
父は自分で商売をしていたので
土曜も日曜もなく一年中働いていて、
いつもわたしのことは後回しにされているし、
父にとってわたしなんて
どうでも良い存在だと思っていたんです。
でも父が倒れて、死ぬかもしれない時、
今まで決してお金持ちではないけれど
したいと思ったことは何でもさせてもらえていたし、
自分がやりたいことを父に反対されたことは
1度もなかったことに気が付きました。
それは父自身が子どもの頃貧乏で
自分が行きたかった学校にも行けなかったから
子ども達にはそう言う悔しい思いを絶対に
させたくなかったからだったと思うのですが。
「わたしは今までなんて大きくて強い愛に
守られて生きていたんだろう、
それはなんて幸せなことだったんだろう」
ということに気が付きました。
父を失いかけて初めて気付くなんて
本当にバカな娘ですよね。
その後、父は奇跡的に回復しました。
日増しに身体に力が戻ってきました。
今も元気に働いているんだから
「生きてるだけで丸もうけ!」と本当に思います。
大変な時に本当に親身になってくださる人と
そうでない人がいるということも知りました。
父の仕事にしても、
今まで支払いは現金でくださっていたのに
おんな子どもだけだと思って
支払いを勝手に手形に代えられたり‥‥。
「しあわせ」って、ずっと永遠に
そこにあり続けるものではないんですよね。
「しあわせ」って自分達で
つくり続けていくものなんですよね。
「両親を大切にしなきゃ」って、改めて思いました。
(たま)

・今、私は37歳。
10年前、27歳の時、
親からの勧めで、お見合いをしました。
共通の話題で盛り上がり、かなり気に入っていました。
毎日のように電話がはいって、
強引とも言えるほどの誘いも受けました。
でも、内心うれしがりながらも、
言い訳をして断ってしまいました。
上昇志向の強い私は、結婚するよりも
自分が「仕事で何者かになりたい」という
傲慢きわまりない思いに囚われていたのです。
それから、4年間ぐらい、時々彼の側から
もう一度会いたいという申し込みがあったにも関わらず
その都度、彼の気持ちに
優越感を感じながらも断り続けました。
32歳の時、父が癌に犯され、
余命半年と宣告されたとき真っ先に頭に浮かんだのは、
「父が生きているうちに結婚しなければ・・・」
そこで、頭に彼のことが真っ先に浮かんだのですが
返事は、‘彼の結婚が決まった’という電話。
その時初めて、彼に対して、
どんなにひどい仕打ちをしてきたのか
どれほど傲慢な女だったのかと悔やみました。
その後、父が亡くなり、一念発起して転職し、
今は、地盤固めの日々を過ごしています。
今の生活には、何の不満もありません。
ただ、生活が落ち着いてきた今だからこそ、
どんなに、ひどい仕打ちをしてか、
そして、あんなに真っ直ぐ思ってくれる人は
現れないだろうなぁと心の底から思うのです。
あの時の私に一番足りなかったもの、
それは、謙虚な気持ちと他人を思いやる気持ち。
少しでも、心に引っかかる何かがあるのなら、
安易に手放してはいけないということ。
私の一生の課題です。
(SOLEIADO)

・共働きです。
生後半年をすぎた娘を、
普段は保育園に預けているのですが、
娘が風邪をひいたので保育園を休み、
近所の実家に1週間ほど預けることになりました。
ぼくと妻が交代で泊まって、夜、一緒に寝るわけです。
昨日、実家に着いて最初に見た光景は、
娘が寝返りを打つ様子を、
でれでれ、にやにやしながら見つめる、
本当に幸せそうな両親の顔でした。
二人とも床に寝そべってだらしない顔をして、
とても人様に見せられない光景ではありましたが、
その表情は愛情に満ちていました。
孫と息子、ちょっと関係は違うかもしれないけれど、
ぼくもこういう愛情に満ちた両親に育てられたんだな、と、
ふと実感しました。
今日、ひさびさに母親が弁当を作ってくれたんですが、
相変わらず、リンゴはうさぎさんになっていました。
おかずは、ひそかに父親が買ってきてくれていた、
ぼくが幼い頃から好きだったお店のトンカツです。
孫ができても、息子への愛情は変わらないようです。
親から見ても、子どもはいつまでも子どもなんですね。
(ぱ)

・朝食時に何気なく
ヨーグルトの賞味期限を見ると、今日の日付けでした。
でも何か心にひっかかるものがあり
少しその日付けを見ていたら思い出しました。
今日は、20代の時に7年間つきあった
彼女の誕生日だったのです。
実は、付き合っているときに
作ったカード(銀行・クレジット等)は
全て彼女の誕生日を暗唱番号にしてました。
私自身は結婚して子どももいますが、
カードはそのまま使い続けています。
もちろん、かみさんには番号の由来は話してません。
わかれてずいぶん経ち、
ずっとこの数字を折に触れ目にしているのに、
今日みたいに誕生日として意識したのは初めてです。
家庭的な子だったので、
結婚して幸せになっているとをいいなあ。
「誕生日おめでとう」
もう伝えるすべがないので、
思わず、ほぼ日にメールしてしまいました。
(ぱお)

・「転機のとき」というテーマにドキッとしています。
今度の夏から3年以上海外に行く
彼と結婚して一緒にアメリカへ行くか……。
半年以内に決断のときがくるからです。
いまの自分は好きな会社で楽しく仕事をして、
恵まれた収入を得ています。
彼は、学生としてアメリカへ行くので、
卒業してからの仕事がどうなるかは神のみぞ知る状態。
仕事や友人・知人たちのことなど、
現在のすべてをいったん断ち切って、
未知の生活環境と将来に踏みこむ不安が、
どうしても心の中をいったりきたりします。
なぜなら私はもうすぐ40歳。
これから英語圏へ行って、自分は何がしたいだろうか…?
伴侶として考えている彼であっても、ただ、
「彼に付いていきまーす!」だけでは、
自分を納得させるのが大変になってしまった。
20代のときの自分なら絶対迷わなかったと思うけど。
山本文緒さんの小説にもあった
『ファースト・プライオリティー』は一体何なのだ、
と自分に問うてみたり、自分としては楽しい毎日なので、
すでに人生守りに入っちゃってるのかなぁと反省してみたり。
考え方の道筋が見えなくなって、すっかり迷子なのでした。
とは言っても、「えい」って
アメリカに行っちゃいそうなんですけどね(笑)。
(子羊)

・この時期だからというわけではありませんが
私の転機はやっぱり『震災』です。
神戸の、建物の倒壊で命を失った方が一番多い町。
住んでるマンションも全壊し、
ドゴーッツっていう地響きとともに
とんでもない生活が始まりました。
当時私は社会人1年目でした。
就職氷河期、どうにか入れた会社で働いてたんです。
運良く家族は無事でしたが、
冷蔵庫にコーヒーポットが刺さってたり、
冷蔵庫にあったはずのキャベツが
お風呂の湯舟に浸かってたりするんです。
母が好きで集めた食器も、粉々でした。
非常用に置いていたペットボトルの水も
家が傾いて取ることができません。
まず寝る場所と食べ物を
確保するところからはじまりました。
当日の夜、近所の大学でいただいたパンを食べながら
ぼーっとニュースを見ていると
亡くなった方のリストのなかから
高校の同級生の名前が下から上に流れて……
「呆然とするってこういうことか」
って別の自分が見てたのを覚えています。
社会に出ることなく亡くなった友達のことを考えた時、
運良く、生きることができた私の
これからの人生を考えた時、
大袈裟って言われるかもしれませんが
「いつ死んでも悔いの無い生活をしよう」
と思うようになりました。
震災から1年が経過し、少し落ち着いた頃、
勤めた会社を辞め、もう一度勉強をし直し、
周囲の協力のおかげで、
憧れていた職業に就く事ができました。
今は充実した毎日を送っています。
小さい地震が起きた時、体が細かく揺れている間に、
今死んでも悔いはないか、って必ず自問自答します。
いつ死んでも絶対悔いはあるけど、
8年前よりはわたし、頑張ってるって思うんです。
私にとっての転機が震災だなんて、
家族を失った人からすれば
不謹慎で腹立たしいかもしれません。
でも、誰かに聞いてもらいたい気分なので
長々とメールしてしまいました。
震災について話すのはほんとうに難しいですよね。
(匿名のかた)
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