子どもの話はおもしろいに決まってる。
だからわざわざやらなくても‥‥
というわけでもないんですけど、
これまで「ほぼ日」では、
子どもとか、子育てを軸にしたコンテンツは
あんまりやってこなかったんですよね。
よそでもやってるし、親バカっぽくなっちゃうし。
でも、ぼちぼちやってみようかな!
と思っていたところ、ちょうどタイミングよく
「&こども」という子育てに役立つことを考えた
「ほぼ日手帳」のカバーができあがりました。
じゃあ、その記念にということで、
短期集中的に「子ども投稿企画」をはじめますよー。
全国のママさんパパさん、ぜひご参加ください!
担当は、永田とスガノです。どうぞよろしく。

3月11日の、こどものこと。

nagata
こんにちはー。
sugano
日曜日、東京はいい陽気になってます。
nagata
今日もみなさんからの投稿が
たくさん届きました。
ありがとうございます!
sugano
掲載は明日が最後ですので、
今日の夜くらいまでが
メールの〆切となります。
みなさん、お待ちしています。
nagata
きょうもたっぷりです。
sugano
では、どうぞ。

みなさんの投稿です。

関西に住んでいますが、あの日息子は
卒業旅行で長野へスキーに行ってました。
特に揺れに気付くでもなく
帰りのバスに乗り込んで、
やたら件数が多い私からのメールや着信を
ただ「うざい」と思い、無視してたそうです。
けれど、休憩のサービスエリアで
テレビに映るニュースは、
とんでもないものでした。
「映画?」と思ってみても、そうではない事態。
テレビの前には、慌てて電話する人、
頭を抱えている人、唖然と見ている人‥‥
そう言えば、高速をたくさんの消防車、救急車、
レスキュー車とすれ違ったなぁ‥‥と。
おきている出来事が理解できないまま、
とにかく私に電話してきたようです。
家では、連絡がとれず大騒ぎしていました。
夜、家に着いた息子は言葉少なく、
ただただテレビを見ていました。
そこは数年前まで私達家族が
暮らしていた場所でした。
(ぶんママ)
1月11日に娘を出産しました。
大人と一緒にお風呂に入れる月齢でしたが、
まだ寒い時期だったので、
昼間にベビーバスで沐浴させていました。
地震があったのは、いつものように沐浴させ、
授乳していた時でした。
いろんなものが次々に棚から落ちていき、
私も無防備な姿でただ慌てていたのですが、
娘は私の腕のなかでスヤスヤと寝ていました。
この時、「動揺している場合ではない、
今、私はこの子のために生きる時じゃないか」
と心から思いました。
なにか自分の中に一本、
柱が立ったような感覚がありました。
その後、凹むようなことがあっても、
辛いことがあっても、あの時の寝顔を思い出して
気持ちを立て直しています。
(うやこ)
当時息子が小学2年生、娘が小学6年生でした。
息子がスクールバスを降り、駅のホームで
電車を待っていたときに揺れがあったそうです。
天井からつりさげられている看板が
がたがた揺れていた、とは息子の談。
「電車はしばらくきません」
というアナウンスがあり、ひと駅でもあるし
道も知っているので彼は徒歩で帰宅しました。
途中の余震にも気付くことはなかったようです。
娘は授業中で、揺れが収まった後に先生の引率で
そのまま体育館へ避難したそうです。
「地震がきますっていう放送より早く揺れてた」
私は無事でしたが交通網が遮断され帰宅不可能。
夫は公安職の為、何にせよ帰宅は出来ません。
何とか電話がつながり、
息子が自宅にいることを確かめました。
家の中も幸い荒れてはいない
ということだったので、
そのまま息子は一人で留守番になりました。
娘は「保護者が引き取りに来て下さい」
という連絡がありましたが、いかんせん
交通網がアウトなのでどうしようもありません。
娘の他にも帰宅できない児童はいたようで、
体育館内で学園敷地内のコンビニで調達された
おにぎりが配られ、先生と待機となりました。
夕方、ようやく私が息子と電話で話した時、
最初に言ったのが
「冷蔵庫にあるごはん、
 食べてもいい?」でした。
食べる気力があるなら大丈夫、と安心しました。
電車が動いたのは夜も遅い時間で、結局娘は
バスの運転手さんに自宅へ送ってもらいました。
私が帰宅したのは日付も変わったころで、
2人とももう寝ていました。
夫は仕事上それから2日間帰宅できず、
福島の原発へも行ったりしましたが‥‥
それはまた別のお話です。
(ヨユコフ)
あの日の我が子。当時2歳でした。
一階に我が子が昼寝していて、私は二階に。
大きくなる揺れの中、
これはやばいと我が子のいる部屋へ。
しかし物は落ちるわ体は思うように進まないわ。
福島県沿岸部。揺れました。
ようやく昼寝部屋についたら、
熟睡していて起きる気配がありません。
とりあえず外へと思い、
抱きかかえて外へ出ました。
本震で寝ていたので、揺れ自体は
トラウマになっていないのですが。
その後の原発事故で大人達がパニックになり、
周りも津波被害、一時避難をしたので
揺れ=津波=原発は怖い
と頭にあるようです。
4歳になった今も小さい地震で
ギュッとしがみついてきます。
(玲奈)

自宅では落ちた壁掛け時計の
ガラスが割れていましたので、
子どもたちをそこへ近づけないようにして、
掃除をしようとしていると、
長女は同じアパートの友人の家へ、
次女もそれについてあそびに行ってしまい、
あまりに平静なことに驚きました。
夕方帰宅後に子どもたちに様子を聞いても
それほど余震に怯えるふうでもなく、
地震が起こった時の様子や、
友だちの家での様子など話してくれました。
地震が起きた時も、その直後も、
いつもの顔(友人や家族)に
囲まれていたことで
日常からあまり切り離されることなく
落ち着いていられたのかもしれません。
ただ、さすがに夜は怖がっていたので、
私も子供部屋に布団を敷いて寝ました。
その後ずいぶんと時間が経って話してみても
揺れた瞬間の風景はよく覚えているようです。
しかし、1年後である昨年の3月、
また、最近またよく目にするようになった
テレビでの津波や地震の映像には
次女はひどく怖がるようになりました。
小2の時よりも頭も心も成長し、
いろいろなことが
想像できてしまうからかもしれません。
(観たぞ民)
うちの息子は小学三年生でした。
ちょうどその日から、
短縮授業で帰宅時間が早くなり、
我が家の目の前の広場で、
友達5~6人と遊んでいました。
大きな揺れが収まってから、
部屋に戻りテレビをつけました。
東北地方で大きな地震があった、
と速報が出ました。
息子と友人たちが
我が家の玄関に集まってきました。
口々に「スゲー、揺れた」と興奮状態でした。
私は息子の友人たちに
「家におうちの人がいるなら、
 すぐに帰りなさい」と言い帰宅させました。
あの揺れの後、
自分の息子がどこにいるかわからないとか、
帰ってこない、なんてことがあったら、
すごく心配だと思いましたから。
小学生男子が団体でいたので、
みな異様な高揚を見せていました。
同じ広場で遊んでいた上級生たちにも、
「とにかく一度帰って、
 親御さんと安否確認しなさい」
と声をかけましたが、
帰ろうとはしませんでした。
一時間ほどして、学校から
巡回に出てきた先生方に促され、
ようやく解散したようでした。
(きのっぴー)
わたしは保育士で勤務先の保育園にいました。
3歳児クラス18名がお昼寝から起きて
おやつの準備で手洗いなどをしていました。
揺れを感じ、
テーブルの下に入ってと声をかけると、
みんなすぐにテーブルの下に入ってくれました。
わたしも入りました。
一人だけ、保育室の隅でまだ
お昼寝布団の上にいた女の子がいました。
職員室に会議をしていた先生が
ちょうど戻ってきて、
その子を守るようにかぶさりました。
しばらくの間そうしていましたが、
一人も泣いたりせず、
みんな静かにしていました。
その後、通常保育に戻りました。
わたしはパートで16時までの勤務でしたので、
同じ保育園に預けている下の子2歳を連れて、
近くの幼稚園に通う
上の子6歳を迎えに行きました。
幼稚園は園舎が古いためか、
先生方やこどもたちが園庭で集まってました。
上の子は泣き顏だったので、
怖かったのかなと思ったのですが、
担任の先生から、地震の避難の後、友達と、
「地震こわくなーい!」とか、
「揺れておもしろーい!」とか
ふざけたらしく、
それで叱られて泣いたとのことでした。
(nao)
長崎で、学習塾を開いています。
あの日、長崎にも津波注意報が
長時間続いていました。
地震が少ない地域のため経験のない事態でした。
ちょうど子供達が通塾してくる時間帯のこと。
私の塾のそばには川があり、
もし水が逆流してきたら、という心配から、
橋を渡って来るはずの生徒たちの安否確認をし、
連絡がついた子には休んでもらいました。
学校からまっすぐ来る生徒たちは、
学校で説明があったのでしょう、
今日は遅くなってでも、全員お迎えを
待ってから帰ります、という私の話を、
誰も文句一つ言わずしっかりした表情で
きいていたのを覚えています。
11日から少し日が過ぎますが、
状況が次々わかりはじめたころ。
長崎という、かつての爆心地に近い地で
育っている生徒たちにとって、
東北、福島のみなさんのことは、
人ごとではなかったのだと思います。
東北の子供達に文房具を送るため、
もし余っている物があったら持ってきて下さい、
とお知らせを載せた
教室だよりを配った日のこと。
さっきさようならをして帰ったばかりの
4年生の生徒が、息をきらしながら
また教室に戻ってきました。
「忘れ物をしたの?」と尋ねると、
はあはあと肩で息をしながら、
鉛筆を一握り差し出して、
「これ、使っていないのが
 引き出しにあったので、送って下さい」と。
少しでも早く届けたいという、真剣な表情と
差し出されたぎゅっと握った手のこと、
忘れられません。他の生徒たちも、
それぞれに探してくれました。
中には、余っていなかったと落込む子も。
他にできることを探してみよう、と話すと、
考えて行動する姿がありました。
子供達の表情が変わり、
考え出した、11日でした。
(ミムラ姉さん)
11日、私は福島県会津若松市内で、
地震の揺れを感じていました。
私は、阪神大震災の時も、宝塚の実家で、
短く猛烈な激しさの揺れを経験しました。
今回のは、大きくそして、
何よりも特徴的だったのは「長い」揺れでした。
小学二年生の息子は学校の廊下から、
教室の机の下に逃げ込んだそうです。
皆、静かだったそうです。
阪神大震災の記憶
(震災直後、道路が大渋滞し、
 緊急車両が現場へ到着できなかった)から、
安全な場所にいる息子のことは、
少なくとも1時間我慢して迎えに行かないで
お互いの安全を祈っていようと思いました。
しかし、皆すぐ迎えに行ったらしく、
残った生徒たちは全学年で
1クラス分くらいの人数だったとか。
どんどん帰っていく友達、
迎えに来た親たちを見て、
息子は何と思っただろう。
ごめんね、本当に心細かったね、
と抱きしめると、息子は、
「阪神大震災の話を聞いていたから
 わかっていたよ、平気だったよ」と言いながら
しばらくギューッと私につかまっていました。
当日、息子は津波のニュースを見ていて
顔色が悪くなり、晩御飯を食べれず、
トイレも一人で行けず、
早い時間に布団にもぐりこんで
「一緒にいて」と頼んですぐ寝てしまいました。
昨年のあの日のあの時間には、
「どうしてもその瞬間には、
 家にいて黙とうするんだ」と言っていたので、
そのようにしました。今年は学校にいます。
市内でサイレンを鳴らすそうなので、
どう思いを巡らすのか、帰宅してから
話せるようだったら聞いてみようと思います。
(ペリーニョ)
大きな揺れは本当に長く、何度も続きました。
当時9歳の甥は小学校に居て、
学校の先生の冷静な指示のもと、
母親である妹が迎えに行くまで、
校庭で寒い中泣くこともなく
待っていたそうです。
原発事故があったことは福島市民は
ネットやメールで流れてくる情報で
「子どもは外に出さない方がいい」と
口コミで気をつけあっていたと思います。
家の中で退屈しないように、
折紙や色画用紙をたくさん持っていったり、
水や食料を届けたりする位しか
伯母としてはできませんでした。
いつも食べている好きなもの、
玉子のお寿司とか味噌汁、
インスタントラーメンなどを食べると
ほっとする表情を見せていました。
余震が頻繁に起こり、「いつまで続くのか」と
大人でさえ取り乱す人が居る中で
「地震なんかに負けないぞ!!」と
拳を力強く振り上げたりして、
9歳の甥が一番元気に振るまっていました。
福島市では放射能を怖がって
流通が一時ストップし、
スーパーにも物がなくなる状況が
2ヵ月ほど続きましたが、その時も、
買い物かごに店頭に並んだ食料品を
大量に入れる母親に
「そんなにひとりで買ったら、
 他の人が買えなくて困るでしょ」と
9歳の甥に言われ、母親である妹ははっとし、
そして、この子はちゃんと育ったな、
と感じたと話してくれました。
ただ、放射能のことを流すテレビ番組が始まると
部屋の隅に行って漫画を見始めたり、
見たくないんだなということは感じました。
小学校の図画工作の授業で
大きな木の十字架の下に
釘をたくさん打ち付けた作品を作り、
「死に神が車を流しているところ」との題名に
母親である妹は衝撃を受けていましたが、
そういう表現をすることで自分の中の、
説明がつかない不安や恐怖を
外に出していたのだと思います。
この甥も、福島の子ども達も、
健康で長生きしてほしいと心から願っています。
甲状腺の検査で少し心配な数値が出ても、
福島の親は「大丈夫だったよ」と伝えています。
見えない不安をあおるようなことを、
子どもにはできません。
この現実は今も続いています。
東日本大震災はまだ終わっていません。
(明子)
出産のため東北の実家に里帰りしており、
地震が来たのは病院から退院して2日後でした。
授乳中に家が揺れ出し、
部屋のタンスがグラグラ傾いていました。
私はおっぱいに吸いついたままの子どもを抱え、
部屋の出口近くのタンスが倒れないように
背中で必死に押さえました。
その後停電が続きストーブが使えず、
暖を取ることができなくなりました。
外は雪でした。
寒い部屋では布団もなかなか暖まりません。
ラジオからは悲惨な状況を
伝えるニュースが聞こえ、
浅い眠りにつこうとすると
恐ろしい余震で目が覚めます。
ローソクと懐中電灯の光の中で
授乳やオムツ替えをしました。
非常時にも構わず、
子どもは泣くし笑うし眠ります。
家族全員が、生まれてきたばかりの
子どものために夜通し動いていました。
そのおかげか、子どもは母乳もしっかり飲み、
眠り、体調を壊すことはありませんでした。
その後も、このか弱い新生児の存在が、
私たち家族を落ちつかせ、勇気づけ、
笑顔を早い段階からもたらしてくれました。
産後でいろいろ不安定だった私は、
子どもを胸に抱いていることで
落ち着くことができました。
子どもはこの日のことを
覚えていないだろうけれど、
大きくなったら必ず話をしようと思っています。
あなたの存在が、お母さんや家族の心を
仄かに照らしてくれたのよ、と。
(ゆり)
2年前のあの日、
私と当時2歳だった娘は私の実家にいました。
古い家なのもありますが、岐阜県なのに
ズドンとくる揺れがきたのを覚えています。
直後、延々と流れるテレビの地震情報に娘は
怖いと言って泣くばかりでした。
私の友達の子供達も同じように
心を痛めていました。その日からしばらく
娘の夜泣きが続いたのも覚えています。
4歳になった娘は時々思い出したように
地震の話をしながら涙目になったりします。
小さな娘なりに恐ろしさや悲しさや
いろんなものを感じているんだと思いました。
(りーりー)
当時年中さんだった息子と自宅にいました。
息子は自閉症で、非常に不安が強い子なので
知らない場所、かつ知らない人が沢山いる
避難所にはまず行けない、と思いました。
地震直後すぐ停電した為、
車でラジオを聴いていたのですが
余震のたびに息子がパニックになるので
「いっそ、車を走らせて、
 余震を感じさせないようにしよう」と
車で30分の、私の実家に向かいました。
我が家の場合、息子が落ち着ける場所が
近くにあったから、仕事の関係で
主人が1週間帰って来なくても
息子は何とかなっていましたが
避難所生活を余儀なくされた、
同じ境遇の方々の苦労は
相当なものだっただろう、と本当に思います。
私自身が避難所生活を強いられたら
おそらく、その場所に長期間は
いられなかっただろうと思います。 
現在、息子は通常の小学校の
特別支援クラスに在籍しています。
このクラスの子供たちは、
みんなあの地震がトラウマになっていて
避難訓練ですら、落ち着きがなくなります。
震度2程度の地震でも、
ちょっとしたパニック状態の子も。
そんな子供たちをどうやってケアしたらよいのか
いまだにそれが、私の課題になっています。
(かさぶらんこ)
神奈川県在住です。
息子は小2、娘は年中さんでした。
揺れが収まるとすぐに娘を連れて
学校へ向かいました。 
幸いまだどのクラスも帰りの会の最中で、
みんな学校にいました。 
息子はわりあい淡々としていました。
「女の子は泣いてる子もいたけど
 自分は平気だった」と言っていました。
娘にとっては長く大きな揺れが
かなりの衝撃だったようです。
その後テレビで地震の映像が流れるたびに
体を固くして
目をそらしていることに気づきました。
娘の前では、できるだけ
地震の映像を避けるようにしました。
今ではそれほどでもありませんが、
1年以上は続いたのではないでしょうか。
(みゆ)
私は編集プロダクションに勤めています。
2011年3月11日は、校了作業の真っ最中でした。
4歳の娘が数日前から風邪をひいていたのですが
その日は校了日ということもあって休めず、
本当にたまたま前日の夜に
実家の母(栃木)に来てもらいました。
大きな揺れがあったそのとき、
娘は母と一緒に自宅にいました。
昼寝から目覚め、遅い昼食を食べ、
ゆっくりしているときだったそうです。
驚いた2人は、大きな揺れがおさまったあと、
すぐに外に出ました。
エレベーターは止まっていたので、
マンションの8階から
母が娘を負ぶって階段で降りたそうです。
1階の駐車場には、住民がたくさん集まっていて、
ひと心地ついたと話していました。
私は恵比寿の会社にいて、
もくもくと作業をしていました。
揺れたとき、社長が
「みんな、データを保存して!」
と叫んだのを覚えています。
私は下の子を妊娠していて、そのことは
社長以外にはまだ秘密にしていました。
でも、その状況下で秘密にし続けることは難しく
みんなに打ち明け、助けてもらいながら
階段を使って外に避難しました。
普段だったら、娘のことが心配で心配で、
歩いてでも何をしてでも
家に向かったと思います。
でもその日は幸いにも母が来てくれており、
心細い気持ちのまま保育園で
待ち続けることなく済んだので、
お腹の子のことを最優先に考え、
状況が落ち着くまで、
会社で待機することにしました。
まだ品物があったコンビニで
おにぎりやお菓子を買い込み、
ラジオで状況を確認しながら過ごしていました。
みんなが私のお腹を心配し、
ひざ掛けを貸してくれました。
緊張が続いたことなどから、
私もお腹のハリを感じたので、
ありがたくそれらを借りて、
横になって休みました。
そのうちに、動き始めた地下鉄を乗り継ぎ、
主人が私の会社まで来てくれました。
時間は深夜1時を過ぎていました。
道路の渋滞は緩和されていましたが、
乗れるようなタクシーは走っていなかったので、
渋谷駅までなんとか歩き、
運転再開した井の頭線を使って帰宅しました。
家に着いたのは、午前3時ごろでした。
娘はぐっすりと眠っていましたが、
気配で目が覚めて、少し話しました。
「すぐ帰れなくてごめんね」と謝ると
「ばあばがおんぶしてくれた」
と言っていました。
原発の問題もあったので、
栃木のばあばには
それから数日滞在してもらいました。
その間にゆっくり話を聞いたのですが、
ばあばは、娘がいたからこそ、
パニックにならずに済んだと言っていました。
娘はあの日、とてもおりこうさんで、
言うことをよく聞いていたそうです。
余震があるたび、
怖がって、ぎゅっとしがみついてきたり、
甘えるようなことはありましたが、
それでも自宅にいられたこと、
ばあばがいてくれたことで、
だいぶ安心できていたのではないかと思います。
育児休暇が明けて、
4月からまた仕事に復帰します。
万が一のことがまたあったら、
そのときはどこでどうしているのか‥‥。
今度は娘たちも小学校と保育園で
バラバラになります。どのように対応するか、
きちんと話し合っておこうと思います。
(ねね&ののママ)
私は、すごく悩んで
会社を辞めて母になりました。
辞めても、どこかで、
「あのまま働いていたら‥‥」と
うじうじすることも時々あるまま、
午前中だけ働くパートを
中途半端に10年以上続けていました。
あの日、私はそのパートを終え、
家にいました。
我が家は、かなり長い間揺れましたが、
あまり落下物もなく、
私自身は一人でしたが落ちついていました。
そして、集団下校で二男が帰ってきました。
私を見るなり抱き着いて
「お母さんがいてよかった」と泣きました。
役員活動やランチなどで出歩くことも多く、
ちょっと心配だったのだと思います
4年生、たぶん一人でも
がんばったと思います。
でも、私はあの時、納得したんです。
「ああ、私はこの日一日のために、
 仕事を辞めたんだ」
抱き合って安心を喜び合える
ギリギリの年齢だったと思います。
泣いてくれる
ギリギリの年齢だったと思います。
実際、中学生の長男は普通通り、
淡々と帰ってきました。 
私はその時があったおかげで、
もう、いいような気がして。
二男が中学生になる4月から
そのパート先で社員になります。
今までの、うじうじした気持ちも、
あの時の「家にいて良かった」という気持ちも
全部大事にして、バリバリ働くつもりです。
(たかひろりん)
私たち家族の住まいは茨城県南部。
近所の家の大半が瓦が落ち、
学校での除染作業も去年の暮れに行われ‥‥という
被災地の「へり」のあたりの地域
ということになるかと思います。
あの日、末っ子は幼稚園、
上のきょうだい2人は学校に、
私は最寄りの駅ビルで買い物、
夫は千葉県の会社で仕事をしていました。
卒園間近だった末っ子は、
当時様子を聞いても
「わかんない。へいきだった」
としか言わなかったのですが、
やはり一年たったころにとつぜん
「先生が、早く庭に出て! って言ったんだよ。
 部屋のすみに椅子が積んであって、
 離れて! って言ってた。
 雨が降ってきて、部屋に入ったり、
 また揺れて庭に出たりした」
と、とても詳しく話しをしはじめました。
当時2年生の息子は
「教室の一番前にいたから、
 水槽がすっごく揺れて水がかかりそうだった」
4年生の娘は
「体育の後で、教室にいなかった人がいて、
 先生たちが確認をとるのが大変そうだった」
ちなみに息子のクラスだけは
帰りの会も終わって下校直前での地震だったので
ランドセルなど持ち帰れましたが、
ほかの学年は上履きのまま、
何も持たずに教室からグラウンドに避難し
そのまま下校となりました。
私は急いで買い物先から帰宅、
近所のお母さんたちと申し合わせて
代表で子ども達を迎えにいきました。
(なにしろ電話は止まっていて
 学校からの連絡はなし、
 その時点では子ども達が学校で待機してるのか
 下校してくるのかもわからず、
 特に小さな弟妹のいるお母さんたちは
 身動きが取れなかったのです)
帰宅した子ども達は、
ひっきりなしに余震が来るので
テーブルの下に避難させました。
そして「不安なこころには甘い物」と思ったので
ふだんはキビシく制限している
お菓子とジュースを食べ放題にしたところ、
最初はおびえていた子ども達も慣れてきて
(子どもってすごい)
毛布やマンガや猫をひっぱり込んで
けっこう楽しそうにやりはじめました。
今でも「おかしいっぱい食べてよくて
嬉しかった」と言います。
その日の晩ご飯は
温めるだけでよい「冷凍うなぎ」。
これも子どもに好評でした。
後日、私の母に
「あの日はとてもご飯なんて
 食べる気持ちじゃなかったわ‥‥」
と言われ、自分との差に愕然。
子どもがいると、
「まず食べさせなくては!」と考えるのですよ。
決して私が食い意地張ってるわけでは
なくってよ! と思いたいのですが‥‥。
夜は「地震怖い。どきどきしてねれない」
と言うので、
「幼稚園のウサギの好きなえさは
 なんだったか、考えてみよう」と提案。
みんないつの間にか眠っていました。
‥‥つい長くなりますね。
きりがないのでこのへんで。
「忘れないうちに、書いておこうね」
と言いつつそのままになっていました。
これをきっかけに、
ちゃんと書き留めておこうと思います。
(ぽち)
あの日、卒園式目前の
6歳の娘と3歳の息子と家にいました。
鎌倉でも今まで感じたことのない
大きな揺れに驚き、
これは危ないかも、と3人で外に出ました。
電線がぐらんぐらん揺れていたことを
今でもしっかり覚えています。
ご近所さんたちもみんな出てきていて、心配顔。
さらにうちの子たちは怖がって、
わぁわぁ泣いてしまっていました。
もちろん私も、不安や怖さに
どうしたらいいのか戸惑っていましたが、
隣に住んでいる90歳を超えたおばあちゃまが
「大丈夫よ、
 ここは地盤がしっかりしてるから!!」
と力強く励まして下さったり、
お店を経営しているご近所さんは、
「停電で食べ物も大変でしょ、
 これはゆでるだけだから」と
お店用のうどんとをいただいたり、
ロウソクをいただいたり、心細い中でも
ご近所さんの有り難みを感じた一日でした。
(mitojyun)
震災の時、
宮城県仙台市宮城野区に住んでいました。
当時娘は生後11ヶ月で、
1歳の誕生日目前という感じでした。
震災の日は近所のママ友達とお出かけをしていて
仙台より少し北の富谷という場所にいました。
初めは「また地震か。最近多いね」ぐらいにしか
思わなかったのですが、揺れは長く続き、
だんだん強くなってきたので、
娘を抱っこし念の為に建物の外に出ました。
その瞬間、縦にも横にもグラグラと揺れはじめ、
あちこちから悲鳴とガラスの割れる音が
聞こえてきて、駐車場の車ははずみ、
道はぐにゃぐにゃと波をうち、
立つことも出来ずに座りながら
必死に娘を抱っこしていました。
怖いという気持ちよりも、
今何が起こっているのか理解する為に
頭が混乱している状態でした。
まだ歩けないし話せない娘でしたが
怖がらせてはいけないと思い、
大丈夫だよ~大丈夫だからね~と
優しく声をかけてあげていました。
ぎゅーっと抱きしめていたので
安心してくれたのか、
一向におさまらない揺れの中で
娘はスヤスヤとお昼寝をはじめました。
抱っこしながら娘の寝顔を見てると
あたしの方が包まれてる気分になり、
今すごい状況になっているけど
私ががんばらなきゃ、
これからもっとしっかりしなきゃ!
と勇気がわきました。
車に乗りラジオをつけると
津波に気をつけて! という内容が
ずっと流れていました。予測10メートルとも。
海沿いに住む色んな友人知人の顔が
次々に浮かびました。ラジオを聞いた瞬間から
娘を抱っこしてる手が震え、足も震え、
目の前が真っ白になったのを覚えています。
娘が1歳の誕生日をむかえた日は、
正直とても複雑な気持ちでした。
1歳を迎えられた事はとてもおめでたいけれど、
震災で沢山の命が奪われたニュースを
毎日見ていたので誕生日を
喜んではいけないのではないか、
という気持ちにもなりました。
あれから2年…もうすぐ3歳になろうとしている
娘が毎日元気に遊んでいます。
今年も震災で亡くなられた方々の事や、
まだまだ震災と闘っている方々の事を想いながら
娘に誕生日おめでとうと
生きててありがとうという言葉を
伝えるつもりです。
(te)
うちの息子は、小学4年生でした。
私は働いていて、鍵っ子です。
あの日は、たまたま学校が早帰りの日で、
息子は習い事の準備をして、
1人でおやつを食べてるときに、
大きな揺れがきて、
急いで机の下にもぐったそうです。
私は職場で、
すぐ携帯から自宅へ電話をしました。
運よく電話がつながり、息子と話せたので、
ひとまずほっとしたのを覚えています。
息子は普段甘えん坊なのに、
この時意外にしっかりしていて、
息子「机の下にもぐってたよ! 大丈夫だよ!
   ガンプラと電気と、
   ジベチーの箱が落ちてきた」
私 「何か割れたりしてる?」
息子「電気が割れてる。
   あと、俺の作ったガンプラ、壊れたぁ」
私 「家の中でも靴はいてていいからね!
   誰か迎えに行くまで、机の下にいてね!」
息子「今日、習い事どうしよう?」
私 「行かなくていいから! そこにいて!」
息子「わかった」
というやり取りをしたのを覚えています。
その後は一切電話が通じなかったので、
様子がわからず、不安で、急いで帰宅しました。
旦那とは、まったく連絡が取れず、
この日は帰ってこれませんでした。
近所に住む祖父母が
息子をすぐ迎えに行ってくれて、
みんなで近所の学校に避難したそうです。
私が帰り着いたときには、息子は祖父母の家で、
私の帰りを待っていました。
泣きもせず、あわてず、しっかりと
行動できたこと、本当に感心しました。
(ジベチーはジバンシーでした)
sugano
それでは。
あしたは3月11日です。
nagata
あしたまた。

「こども ビームス」さんと、
母子手帳ケースとしてもつかえる、
あたらしいタイプのカバーをつくりました。
なまえは、「&こども」。
つかいやすく、しかもおしゃれでかわいいカバーです。

)くわしくはこちらをどうぞ

「ほぼ日ハラマキ あたためるもののお店」で
いま、子どもサイズのハラマキを販売しています。
これまで人気柄をピックアップしたり
人気のものを再生産して、WEBのお店に並べています。
おかあさんと子どもで、おそろいにもできますよ。
サイズがなくなってきているものもありますので、
欲しい柄があったらどうぞおはやめに。
この冬は、親子でしっかり、あたためよう!

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2013-03-10-SUN