帰ってきた松本人志まじ頭。

第7回 勝利の方程式は、ないけども。



高須 勝利の方程式がないということは、
すごくよくわかります。
その都度考えて考えて・・・ですもん。
悩んだら悩んだぶんだけ良い、というのが、
ぼくなんかには、体に染み付いていますから。
糸井 マゾになるんだよね。
高須 「もっとストイックに考えなあかん、
 もっと、もっと」・・・って。
末永 「これをやれ」と言われたぶんに関しては、
時間と手間暇をかければかけるほど、
やっぱり、よくなるんですよ。
でも、やった結果が良くなったかどうかは、
わからないんです。
糸井 そっか。
末永 だから、何をやればいいのかは、
わからないですよね。
糸井 つまり、何をやれというのが
設計図だとすると、設計図を
考えるところからしたいわけじゃない?
松本 うん。
糸井 だから、俺、設計図を渡されるのが、
好きじゃないんです。設計図を渡されて、
「お前このビル建てろ」と言われたら、
それは違う奴がやればいいんだよって思う。
だからそういうのがつまんなく感じます。

でも、ホームレスが、
「ダンボールしかないんだけど、
 これでひとつ、立派なやつを」
とか言われたら、できるかもしれない、って。

そうすると、それは普通の世の中では、
負け戦の話だと思われるかもしれないけど、
でも、これからの話って、
そのダンボールで、素晴らしい家が
できるようなことだとぼくは思います。

そうしたら、写真に撮られたり、
放送されたり、インタビューされたり、
全体の価値が大きくなる可能性があるので、
そこが、今までの時代との
一番の違いだと思うんですよね。

材料費の差はものすごいあっても、
人々に与えた影響を考えてみたら、
もし、世界中の人がそのダンボールハウスを
知っていると言われたとしたら、
すでに市場を作っていると思うんです。
それがインターネットというものに
ぼくが可能性を感じた原点ですよね。

例えばの話、この対談も、
松本人志がわざわざトーク番組で
ここまで裸になっているのを喋ったら、
視聴率・・・普通は、ないですよね。
「松本なのに、ない」というものになっちゃう。
でも、ネットでやった時には、はじめから
ゼロであるということを前提にしているから、
これはオッケーなものなんですよね。
高須 うん。今、テレビって、
素人ばっかり出てくるじゃないですか。
もう、何となく、自分の中では
勝利の方程式のようなもののひとつだと
思っているところがあって・・・。
「目線が、下がる」ことなんですよ。

松本人志が扉をボーンと開けて出てくるのと、
素人がぼそっと出てくるのとでは、
松本人志はおもしろいことを言うに
決まっているという「すりこみ」がある。

だからぜったいに
おもしろいことを言わなあかんし。

まあ、テレビの歴史が浅い時には、
それでも良かったことはあります。
何やってもはじめてだったから、新鮮だった。

でも、これだけ長い間、
生まれた時からテレビに慣れてしまうと、
テレビがあるという絵に飽きているので、
「おもしろいことを言う人」の芸人ならば
おもしろく出てきておもしろいことを言い、
ぜんぶがおもしろいに決まってる・・・

そうやって予想して見ているんなら、
「・・・あれ?」と感じる時も、
たまには、あると思うんです。
想像している敷居が高すぎるから。
糸井 「つまんなくなった」とか、
言っちゃうんだよね、平気で。
高須 で、素人だと、おもしろいことを
言うとは期待していないんですよ。頭から。

でも、
「どうしようもないことを言うんだろうなあ」
と思っていた時におもしろいことを言うと、
「おもしろいじゃん、この番組」って。
・・・でも、それは
見方の位置が違うだけですよね。
目線が下がってるだけだから。

今は企画も、目線を下げる企画ばかりです。
「おもしろいことをやるよ!」
という企画が、ないんですよ。
糸井 埋め立て地みたいですよね。
高須 そうですよ。
さっきのダンボールの家もそうですけど、
「何にもないよ、ほらほら」っていうところに
ぽつんと置くから、すごいというように
見せてるじゃないですか。

でもぼくは、こういう状態は、
また変わるような気がしています。

だからぼく、
「ガキ」のトークが好きなんです。
「プロのトークを見ろ」みたいな雰囲気が。
だから糸井さんが前に言っていたように、
まだ、ライブというのに対しては、
人が足を運んできてくれる。

わざわざ来てくれるというのは、
やっぱり、プロが見たいからなんです。
インターネットが進めば進むほど
次にはプロが見たくなるんですよね。
糸井 ぼくがダンボールの家が好きだっていうのは、
高須さんのイメージと少し違っています。
ダンボールの家を素人が一度だけ作るのならば、
今のテレビ番組の作り方になりますけども・・・
でも、俺が入って作ったダンボールの家は、
本気でやったら、そこに泊り込むぐらいですよ。

施主のホームレスのおじさんが
「もう、そんなもんでいいよ」と言ったって、
「嫌だ」と言い張りますよね。
で、1週間泊り込んで、これならできた、
というときには、もう、ダンボールの家では
済まないものになっちゃうんですよ。
その考えを、国会議事堂に応用できないかな、
というようなものが、生まれるのよ。
・・・これはけっこう生意気な言い方だけど。

そこで作られたものは
ダンボールにしか過ぎないんだけど、
そこで「住むって何?」だとかへの、
ものすごいヒントが、
ダンボールで作ったからこそ
急に生まれてくるというか。
ずっといい家だけを作ってきた人には、
そこは見えないようなもので・・・。

そういうことを俺ができるのかなあ?
と考えると、もう、老い先も短いわけだし、
いくつできるのかなあ、っていうのに、
興味あるよねえ。

ジョイントして何かを生みたいんなら、
「俺がわざわざ行くんだから」って、
かなり生意気にならなきゃいけないと思います。
「ありがたいです、やらしてもらいます、
 これで、住みやすくなりましたよね?」
と言うんじゃなくて、もう親父が止めても
「嫌だ」って言ってやるからできるわけで。

結果論としては、あとになって、
ホームレスの親父のほうが、
「あれ、やっといてよかったよ」
っていう気持ちになればいいと思う。

五年後にその親父が
ダンボールの大家にでもなってれば
おもしろいじゃないですか。
そういうようなことが、
きっと他の分野でも、できると思うんです。


(明日に、つづきます)

2001-01-11-THU

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