── 松原さんの文章はとても読みやすいんですが、
いったいどんなふうに学んでこられたんでしょう。
ものすごい読書家なのかなとか。
松原 うーん? ちっちゃい頃、
もちろん江戸川乱歩読んだり、
『シャーロック・ホームズ』読んだり、
『怪盗ルパン』を読んだり、
世界文学全集を時々引っ張り出して読んだぐらいで、
蓄積が足りないなと自分で思ってるんです。
ただ‥‥ただ、わからないけど、
テレビの原稿を書くことだって
役に立ってると思ってるんですね。
つまり、テレビの原稿で常に考えるのは、
少なくとも情報をいっぺんにワーッと伝えない、
ということです。
聞いていて、いやになっちゃうじゃないですか。
僕は勉強が嫌いで、
楽しみながら知りたいほうなんです。
だから、物語を展開したり驚かせたりしながら、
そこに情報を紛れ込ませていって、
飽きさせないようにしたい。
その中で、何が言いたいかを
明確にして転がしていくというか。

小説を書きながら思ったんですけど、
やっぱりまだ自分ダメだなとどこかで思ってるのは、
飽きられるんじゃないかっていう、
テレビマンとしての宿命的な悲しみみたいなものを
自分で書きながら感じることなんです。
書きながら常に、飽きられるんじゃないか、
チャンネル変えられるんじゃないかっていう
怖さがあるんですよ。
── なるほど‥‥
松原 だから、ここは緩めてもいいけど、
緩み過ぎるともう飽きちゃうだろうなとか、
ここで情報が多過ぎるともう飽きちゃうなとか、
CMどうまたぐかみたいな、
そういう性(さが)は逃れられない。
── 逆に言うと、それが役に立ってますよね。
松原 役に立ってんのかどうかわかんないんですよ(笑)。
本当はね、そこを恐れずに
もっと書き込むところはグーッと書き込んだほうが、
活字を読み込んでる人間には
物足りなくないんだろうなと思ってるんです。
もうちょっとその性を捨てながら
乗り越えていかなきゃいけないなと。
でも、完全に捨てなくてもいいのかも、
その性はそれなりに役に立つかもしれないなと、
言われて初めてそう思いました。

今、テレビで仕事しながら、
あのすべてを答え出してわかりやすくして、
過剰に情報を出してスーパーかけてみたいな、
ちょっとあまりにもその情緒のなさというか、
想像力を広げる部分のなさのうんざり感もあるんです。
そこも性としてもしかしたら
自分に身についてるかもしれないという恐怖感がある。
そこは、小説書く時にはできるだけ
捨てようと思ってるんですけどね。
── このお話は、さゆり目線というか、
さゆりの背後にカメラがあるみたいな視点で回ります。
それがとても小説的だと思いつつ、
松原さんが書いたのに女性目線の話っていうことも
ちょっと面白かったです。
松原 ああ、なるほど。おそらく、
「日本人の女性がエルサレムに降り立ったら」
から始まったので、女性目線になったんですよね。
男は、それなりにわかるような気がするんだけど、
女性はわからないんで、
わからないほうが書いてて面白い、
‥‥と僕は思ってたんです。
それをたまたまある作家の人と話してたら、
その人はこうおっしゃったんですね。
「まあ、そうかもしらんけど、
 男は女がわからないから、
 女性目線で男を描けばいいじゃないか」と。
「実は女性目線にすると
 自分を描かずに人を描けばいい。
 俺は女がわからないから、
 女目線に俺はすることがあるよ」と。
── 国連にお勤めの奥さまは
この小説は読まれましたか。
松原 はい、うちの奥さんはね、
僕の最初の読者で、
しかも毎回僕が書き直すたびに
読みたいと言ってくれてるので、
20回は読んだと思います。
書き直しも含めて(笑)。
── わあ! 的確なアドバイスがあるんですか。
松原 そうですね。けっこう嫌いじゃないみたいで。
しかも、彼女もNGOにいたりしてるんです。
コソボにもいたんですよ。
だから、この小説の中でのコソボの情報というのは、
実は彼女の経験もあったり、
あるいは彼女の友達を紹介してもらったり、
あるいはコンゴのシーンだったら
コンゴに行った専門家に
僕が会いに話を聞きに行ったり、
コンゴのドキュメンタリーを集めて
いっぱい見たりとか資料を読んだり。
── あ、やっぱり、すごくジャーナリスティックに
情報をあつめることもなさったんですね。
松原 うちの奥さんには、
「小説だからいいんじゃないの?
 もっといい加減でも」
とか言われるんですけど、
地名をA市とかB市とか架空の市を設定したなら
いい加減でもいいかもしれないけど、
やっぱりコンゴとかキンシャサとか、
じっさいの固有名詞を与えてしまうと、
それが違う風景では、
知ってる人が見て違和感を感じたらいやだなみたいな。
でも、それも、もしかしたら
報道の仕事をしてる性かもしれないですけれど。
── 松原さんは、
ジャーナリズムの世界にはいま何年‥‥
松原 27年ですね。いま28年目ぐらいかな。
── 27年いたから書けたデビュー作ですよね。
松原 うーん、そうなのかなあ。
僕はジャーナリズムの仕事してて、
いい記者には永久になれないなとどこかで思っています。
── えっ?
松原 世に出てないものを暴く、
権力をチェックするって、
大事な仕事だと思うんですけど、
と同時に、ほとんどの特ダネというのは、
ほかより1分早ければ勝利ということもあって、
それが勲章なわけです。
でも、僕は昔から、
そのちょっとでも早く出すってものには
もうまるで興味が持てなくて。
しかも、よく仲間たちが喜ぶのは、
自分の力で権力を動かしたとか、
首を取ったみたいなことなんですね。
自分が書いた記事で誰かが辞任したみたいな、
そういう影響力の行使みたいなもの。
それはある種の醍醐味みたいなものでもあるんだけど、
なぜか僕は全然そういうとこに喜びを見出せなくて。
それよりはそのニュースのところにいるその人が
どんなこと考えてるのかとか、
批判されるべきその犯罪を犯した人間も、
なんでそんなことしたんだろうとか、
どんな思いでいるんだろうとか、
そっちのほうばかり興味があって。
ずっと、いい記者じゃなかったんだと思うんですよ。
だからこそ、こういうのを書きたいと思い続けてきたし、
今もずっと思ってるのかもしれないです。
── 紙媒体もそうですが、
テレビはまたいろいろありますものね。
素晴らしいドキュメンタリーもあれば、
なんでこんなことするのかなという番組もある。
松原 記者の1人1人は、いろんなこと考えてると思います。
でも、なんかどこかでその職業の規範としてというか、
他社より早くと。
もちろん他社より早く出すってことは、
一所懸命取材して人から聞き出さなきゃいけないから、
それがもちろん仕事の動機づけになります。
だから必ずしも悪いこととは言えないと思うんですけど、
あまりにそれだけやりだすと、
もう何のために生きてるか
わかんなくなっちゃうみたいな(笑)。
── そうなんですね。
松原さんはこれからは、
小説をまた少しずつでも完成させて
世に出すということを
なさっていきたいということですよね。
ジャーナリズムの仕事もしていき、
ノンフィクションももちろん続けていく‥‥。
松原 そうですね。
僕の中では、小説というものが、
人間を描きたいと思い続けて
50年かけてたどり着いた到達点であり、
もう本当に小さな一歩だという気がしているんです。
開高健さんもフィクション、
ノンフィクション両方書いたけども、
できれば書くことの軸足は小説でトライしてみたい。
その上でノンフィクションなり、
人間のコラムも大好きだし、
ずーっと書き続けてみたいなと思います。
── はい、たのしみにしています。
小説も、それから「ほぼ日」の連載も。
どうぞよろしくおねがいします!
2012-02-10-FRI
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