「あのくさこればい」の対談版。
(雑誌『編集会議』の連載対談まるごと版)

第2回  当然、しょっちゅう間違うわけです。


鳥越 最近、テレビの怖さが
ようやくわかってきましたから(笑)。
前は割とベラベラしゃべっていたのですが、
やっぱり「なかなか伝わらない」というのと
「言葉の怖さ」という点は、テレビをやって
10年目ぐらいにして、本当に自覚してきました。

テレビをはじめて1年目ぐらいに、
田丸美寿々さんと一緒に仕事していたのですが、
当時は番組が終わってメイクの部屋に並んで、
彼女と、しょっちゅう喧嘩をしていたんです。
「鳥越さん、あなたね、
 30秒のコメントに血を吐いてない」
と言われて・・・。
聞いた時には「この野郎!」とすごく頭に来た。
まあ、今は田丸さんと仲良くしていますけどね。

だけど、当時のぼくに、その言葉はちょっと、
胸にずしっとこたえたものでもありました。
ぼくは新聞記者として書いてきた経験から、
「この話はこう言えばいいだろう」と類推して、
大まかにテレビの本番に望んでいたんです。

でも、内容をよくわかっていても、
30秒だとか40秒だとか1分という秒単位になると、
よほどうまく言葉をチョイスしないと、
伝わらないものなんですよね・・・。
そこの点は、間違いなく活字と違いますから。

やっぱり、適切な言葉をちゃんと言わないと、
いくらこちらが理解していてもだめだと思いました。
そのことをわかってきたのも、
実は10年やってきて、ようやく最近ですね。
糸井 でも、ぼくはその田丸さんの言葉への態度は、
時代的には逆ではないかと思ってるんです。
「30秒でまとめないと伝わらない」
という意識の背景にあるものは何かというと、
前提として、受け手の方に対する不信ですよね?
「観ている人は、そんなにたくさんのことを
 考えられない」と想定して伝えているのだから。

だけど、本を書く時、人は「通じる」と信じて書く。
例えば単行本1冊の文字量とか情報量というのは
ほんとうにものすごいものだけれども、
それを「読み通してくれるんだ」という
信念があって、本を書きますよね?
その時に「通じる」と信じているものを、
テレビになった時には「通じない」と決める。
それは、どうなんだろう?

理由はあるんだけど・・・。
テレビのなかの時間の、金銭価値が高い、と言うか、
「ここは高い土地だから、店を出すなら、
 高く売れるものじゃなきゃ、だめですよ」
という考え方に近いからだとぼくは思うんです。
だから、目立つとか、インパクトがあるとか、
テレビがぜんぶ、どんどん
キャッチフレーズの集積になっていっちゃった。

そうやって、ぜんぶのものが
価値のあるふりをした時には、
価値の相対化が必ず起きて。
分量の多いものが勝っちゃいます。
つまり、土地をあちこちに持っていて、
そこに大量投下した類のコマーシャルが勝つ。

そうなると、例えば、
「1日中テレビに出て、おんなじことを
 繰りかえして言っていれば、必ず通じる」
ということになってしまいますよね。
ぼくは、そのロジックみたいなものに対する疑いを
ずっと持ってきたんです。ですから、もちろん
短い時間に血を吐くというような考えは、
ある時代を表現した言葉ではあると思うんだけども、
それは、言わば
「ハードの都合にあわせてソフトを変えろ」
みたいな方向にいく危険性があると思うんです。

ぼくはテレビの経験はそんなにないのですが、
昔に自分で司会をしていたNHKの番組があって、
「どんなに打ち合わせをしてあったとしても、
 その場の流れで結論が曖昧になってもいいんです」
と、ぼくは当時、会議の時からずっと言ってました。
「きょうもわかりませんでした」
って言って毎回終わってたんですよ。
そういうことをできるかできないかというところのほうに、
ぼくは、それこそ田丸さんの逆の方向に血を吐いていました。
吐いてないか・・・(笑)。
結論的にわかったようなこと言ったって、
その話には、続きがあるんだから。
鳥越 それはわかります。
糸井 無理にインターネットの話に
つなげているわけではないんだけど、
ウェブではそれをできるでしょ?
だからうれしい。
「今はまだ考え中ではっきりわからないけど、
 俺はここまで考えていて、この先は
 来週かもしれないし、あしたかもしれない」
というスタンスで話をできる場所が、
文字数というハードの制約も気にせずに
語れるんだというのがわかったときに、
ああ、やっとまともにものが言える、
という気持ちになりました。

田丸さんがおっしゃったことに
個人的に反発しているのではないんですが、
そういう考えは、よく聞くわけなんですが。
その発言に代表される発想が、実は、
工業製品の付加価値を上げるという
前の時代の考え方になっているのではないか。

流れながら考えていったり、
動きながら考えていって、間違いは直す。
何回間違えられるか、何回うまくできたか、
何回それに対して反省できたか・・・。
それをどれだけできるかが、すべてというような。
鳥越 その考え方は、確かによくわかる。
ぼくも、できるだけ自然にしたいから。
わからないことをわかったふりをして、
1回1回ケリをつけていくというのには
いつも違和感を感じるわけです。

・・・なぜなら、私がすべてのテーマについて
必ずしもわかったようなことを言えるわけがない。
それはいつも自覚してまして、
わかったところで言うしかない、と思います。
だから、間違えたときは「間違えた」と
はっきり正直に言いますし、
わからない時にはわからないと言いたい。
そういう気持ちは、ずっとあります。

テレビというのは、「無謬」と言うのか、
間違わないんだという前提で作ろうとしているけど、
やはり人間が作るものですし、しかもそのうえに、
秒単位で、時間と競争しながら作っています。
だから当然、しょっちゅう間違うわけですよね。

それなら、間違えたら間違えたと言い、誤りは誤りだと、
自然体で視聴者と対話ができるのが本当だろうなあ・・・
と思いつつ、そうは言ってもぼくに与えられているのは
その時々に30秒や1分ですから、すごく緊張しながら
何とかその範囲でまとめなければいけないのが現実です。


(つづく)

2000-09-09-SAT

TORIGOOE
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