第1回更新
露崎がふり向いた。鮫島はさりげなくかがんだ。視界の隅でマスクの男が歩きだすのが見えた。階段のほうに向かっている。
鮫島はマスクの男のあとを追った。男は階段を降りかけていた。
鮫島が一階まで降りると、男は店の出入口をくぐろうとしていた。鮫島は間をおき尾行した。
そこは量販店の裏口にあたっていた。歌舞伎町方向へと人が流れる路地に面している。一日を通して通行人の多い場所だ。
露崎の姿を鮫島は捜した。どこからか見ている可能性はある。露崎の"レーダー"はかなり感度が高く、監視された瞬間に反応すると、もっぱらの評判だ。
男が靖国通りにぶつかり、向きをかえた。地下街へとつながる出入口に入っていく。鮫島は足を早め、階段の頂上に立った。
露崎が階段の中腹から上を見ていた。男の姿はない。
露崎はわずかだが当惑したような表情を浮かべていた。浅黒く、精悍な顔に大きな目が特徴だ。その目がさらに大きくみひらかれ、鮫島を見上げている。
鮫島は無言で露崎を観察した。手にしていたパンフレットが消えていた。
露崎は階段の壁に背を預け、大きく息を吐いた。
「旦那、どこから、見ていたんです?」
「何の話だ」
階段を降り、露崎に近づいた。スーツ姿だが、足もとは黒いスニーカーだ。いつでも走りだせるというわけだ。
露崎は鮫島を見つめ、何ごとかいいかけたがやめた。肩をすくめ、再び息を吐く。
「偶然だなんて思わないですよ」
「河岸をかえたのか。あんたの縄張りはもっと向こうだろう」
鮫島がいうと、露崎は首をふった。
「やめて下さいよ。ぜんぜん気がつかなかった。俺もなまったかな」
両手をあげた。
「どうぞ」
鮫島は露崎を見つめた。
「どうせもっちゃいないだろう」
露崎は腕をおろした。
「あんたがパソコンに興味があるとは知らなかった」
鮫島がいうと露崎は空を見上げた。
「やっぱりな」
「いつからだ?」
「最近です。あいつは何も知りません。忘れてやってくれませんか」
「あの販売員か?」
露崎は小さく頷いた。
「ムシのいい話だ」
「俺が悪いんです。客が急いでるっていうから連れていっちまった」
「店に戻るか」
鮫島は無視してうながした。露崎は吐かないだろうが、パソコンの販売員はクスリを売場に隠している。パンフレットといっしょに渡すのが手口だ。
「ネタがあるんです」
露崎が早口になった。
「そりゃ売るほどあるだろう」
「そっちのネタじゃありません。チャカのネタです」
「その話はあとで聞く」
「頼みます。あいつはもう仕事から外します。ガキが生まれたばかりなんです」
鮫島は向き直った。
「泣き落としか。玄人のあんたらしくもない」
「チャカが手に入らないかっていってきた男がいるんです。そんなもん何にするって訊いたら、警官を殺すって」
鮫島は露崎の目をとらえた。
「本当の話なのか」
露崎は頷いた。
「俺に向かって、『須動会【すどうかい】か』って最初訊いてきました。びっくりしましたよ。『はあっ?』て」
須動会は十年以上前に解散した新宿の組だった。組長は引退し、足を洗わなかった者は他の広域暴力団に吸収された。
「長ムシをくらってたってことか」
長ムシとは長期刑のことだ。
「でも『須動会』ですよ。奴らが東口で売してたのは、もう十五年以上前です」
「あんたは何年だ」
「連中と入れかわりです」
「つまり十五年はやってるってことだ」
「俺も引退したいと思っているんです、本当は。けど、客が許してくれない。お前がいなくなったら、誰から買えばいいんだって」
「誰からも買わなけりゃいい」
「そんなわけないじゃないですか。結局、安いネタつかまされて体を壊したり、ネタ切れでおかしくなって暴れたりする奴がでますよ。俺がいなくなったところでクスリが消えるわけじゃありません」
「ベテランのあんたがそんな理屈をうたうとはな」
鮫島はいって、露崎の肘をつかんだ。
「そいつを必ず捜します。きっと俺以外のところからチャカを仕入れて、ヤマを踏みます。いいんですか、お巡りが撃たれても」
逮捕を逃れるためにいい加減なネタをうたうチンピラはいくらでもいる。だが露崎はそんな素人ではない。
「本気でいってるのか」
「本気です。あいつはマジでした」
鮫島は手を離した。
「どんな男だ」
「いい年です。俺より上です。六十代後半。背も高くて、大男でした。髪はまっ白で短かかった」
出所したてなら髪は短かい。長期服役者と考えたのはまちがっていないかもしれない、と鮫島は思った。
「最初から話してもらおうか」
露崎はあたりを見回した。
「ここで?」
移動すれば、露崎との取引を呑むことになる。一瞬躊躇したが、鮫島は頷いた。
「場所をかえよう」
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