怖いものの順番(3月19日)
どれだけ軽微なものであるとしても、ぼくは、30キロ以内というその範囲にいた場合は、いまここで考えているのとは別のことを思うでしょう。「屋内待機」は「避難せよ」ではないけれど、事実上、動けないわけですから、そこにいるな、という意味だと思います。
そのうえで、30キロ圏内でない場所にいる人間の、怖さということを考えたいと思います。ぼく自身は、東京にいます。数字で怖さを計るわけにはいかないのですが、まず、30キロの次に50キロ、さらに80キロ、100キロと、恐怖の切実さは薄まっていきます。ぼくがいま考えたり感じたりすることは、どうしても、じぶんのいる東京都港区を、基準にしてしまいます。この場所に立っていながら、事故現場からもっと近い地域の人たちのことを想像することは、観念としてはできますが、現実的ではありません。
ただ、最悪の事態というものがどういうものなのか、それを知ろうとすることだけをします。最初に言いましたが、ぼくは怖がりなので、どこまでも続く無限の怖さなどには、耐えられそうもないので、恐怖の大王と取引をするのです。「それならあきらめられる」という線引きをして、向かい合うことにします。
で、まずは、考えられる最悪の事態と、おおいにありそうな結果について、知ろうとします。その過程で、とても参考になったのが、この前に紹介した英国大使館の「科学者による評価」です。これも、じぶんの立場から、知りたくて知ったことです。母国を離れて日本で生活している人たちが、どういう指針をもとにして「帰るか、残るか」を決めていくのかというのは、とても参考になる情報でした。
<視点を変えてみました。>
この発表がなされた3月15日の後、英国大使館のウェブサイトで確認したところ、「福島原発の状況、および、物流、交通、通信、電力のインフラなどが混乱する可能性があるため、東京以北の英国人に退避を検討するよう、勧告します」という内容が記載されました。そして、「原発事故については、英国の専門家の最新の見解として、日本政府が定めた避難地域以外では健康への影響を心配する必要はないとしている。(日経新聞)」タイトルは、「英外務省、東京以北からの退避勧告『インフラ混乱の恐れ』」とありました。
原発事故による健康被害についての評価が、大きく変化したというよりは、この事故による社会的な環境の悪化、という要素が、より強く懸念されたということのようです。いえ、怖がりとしては、もっとしつこく、怖さをなくしてくれるような情報を手に入れたいのですが、それをしていると、逆に、「おまえが思っているより、ずっと怖いぞ」というふうな扇情的とも言える論説に当たったりします。探せば出てくるのは、玉と石の両方で、あとは、論の立て方や、これまでの発言などを、素人なりに判断するしかありません。
いまのぼくの個人的な傾向としては、「脱原発の立場なのだけれど、恐怖を煽らない」という考え方の人と、「異なった立場の人を攻撃しない」というような姿勢の人の意見を重視しています。「ほらみたことか!」という人の意見については、あとでその人の言う通りになったとしても、ぼくは選びません。こういうときには、今回一貫してとっている「右往左往するのではなく、右往で判断を止める」という考え方です。
ですから、もちろん、「わたしは納得できない」「おおいに反対です」という考えがあることも承知しています。何度も言っているように、「じぶんのリーダーは、じぶん」ですから、危険をともなうことについても、最後はじぶんがジャッジしてください。
今回の、原発事故の怖さについては、ぼくの場合は、ここまでに知ったことだけでは、完全には解消されていません。これが正直な気持ちです。しかし、「最悪の事態は地獄になる」というような意見を、まるまる信じたとしても、どうしようもないではありませんか。生きる気は山ほどありますが、希望をなくしながら生きるのは、難しすぎます。それに、こんどの震災において、助ける側にいるはずの東京にいて、「最悪の中の最悪」のことばかり考えているのは、じぶんも含めた、復興に向けてがんばっている人への、礼を欠いているようにも思うのです。だって、いまも、道路を直している。こうしている間にだって、避難場所に届ける荷物が、どこかを移動中なんです。よくなろうと思って、みんなが必死になっている。
情けないことに、まだ怖さは残るけれど、「覚悟できる範囲である」というふうに、ぼくは決めました。不謹慎に聞えるかもしれませんし、喩えがずれてるような気もしますが、将来に、何年か寿命が縮まるということなら、いま命があることを喜んで、その被害を受け容れようということです。安くない買い物ですけれど、じぶんという人間のリーダーであるぼくは、そこまでは覚悟したということです。ただ、他の人たちにも、それを強要するつもりはありません。
ほんとうは、30キロ圏、50キロ圏、80キロ圏、という地域が問題なのに、もっと離れた東京で、こんなに怖がってちゃ、だめじゃん、という気持ちもおおいにあります。うーん。実際には、じぶんの怖さや心配というより、おおぜいの人間に襲いかかってくる災難への怖さなのかもしれません。まだ、そのあたりは、わかっていません。
それはそうと、怖いの怖くないのの問題でなく、東京を離れる人も出てきているようです。さみしくなるな、という感覚もありますが、それはそれでいいと思ってます。こんな状況で、「あらゆる判断は、尊い」と思うのです。詳しい説明も、深い論理も不要でしょう。誰でも、ありうる判断だと思います。
「おれは、なにがなんでも東京にいるから!」というような義侠心というか美意識みたいなものは、ぼくは捨てようと思っています。こういう非常事態では、なんにせよ、かっこよくないですし、たいていのことは肯定したいのです。ちょっと前に、これからの時代に必要になるものは「寛容」ではないか、と書いたばかりですが、こんな事態になって、それを実感するとはねぇ。ただ、ぼくは、どうやら東京にいたいようです。そうすることが、なんにつけ、ぼくのなけなしの力を最大限に発揮できそうだし、それが、じぶんのためにも、ぼくの好きな人たちのためにも、いいんじゃないかと思うからです。
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