石川九楊の「書」だ。
(3)書く文字と彫る文字
糸井
石川さんは、書の教室もされていますよね。
教え方というのは、あるわけですか。
石川
はい。
糸井
最初はまず、何から指導するんでしょう。
石川
最初に楷書の基本として、
「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」。
これが漢字の古典中の古典で、
これがわかれば、だいたい、
漢字というのが、どういう形で
書かれるべきものであるかがわかります。
糸井
はあー。
石川
一方では、ひとつひとつの文字が
どうできているかの基本を、
しっかりと知っておくことです。
それから、ぼくの教室では、
いきなり書いてもらうんです。
糸井
いきなり書くんですか。
石川
何でもいいから、
自分がいま書きたい言葉を、
好きな大きさで、
好きなように書いてもらいます。
糸井
書きたい言葉でいいんですか。
石川
書きたい言葉を書いてください。
だって、書きたい言葉を書くために、
書をやるわけでしょう?
筆を持って書いたら、
どんな形になるかを試してみて、
その一方で、書というのが
どういうものであるかの基本を勉強する。
糸井
なるほど、両方ですね。
この「雁塔聖教序」は石ですよね?
石川
石です、美しいでしょう。
石に彫ってあるんですよ。
糸井
これがすごいなと思うのは、
さっきから、筆の勢いがわかると
言っていたんですけれど、
石になっても、まだ勢いが残っている。
石川
すごい、やっぱり糸井さん。
これが、書の歴史上、
初めて石の上に筆で書いた状態を再現できた、
初めての字なんですよ。
糸井
はあー、よくできましたね。
これ、書く人と彫る人は、
別の人のはずですよね。
なのに、心がちゃんと
伝授されているということですよね。
石川
萬文韶という人が彫ったものですが、
優れた人は、彫り方を工夫して
毛筆の書きぶりを再現しました。
書きぶりをなぞっているうちに、
ちゃんと心が通じるものです。
いま、甲骨文、青銅器の金文の上に
トレーシングペーパーを載せて、
ペンでなぞると、古代人が降りてきますよ。
糸井
なるほど、同じ踊りを共有するからですよね。
先ほど、書の間違った見方として
形で見ないとおっしゃっていましたけれど、
篆刻をする時には、
形として認識されているように見えますよね。
石を彫る中に考えを込めないと、
単なる形の再現になっちゃうから。
石碑に紙を当てて写し取る拓本だと、
篆刻よりも機械的に取れますけど、
拓本の中にも速度とか勢いとか、
ちゃんと浮かび上がってくるものですよね。
石川
はい、浮かんできますね。
書というのはつまり、拓本の裏バージョンです。
拓本の黒い所と白い所を
逆転させたものが「書」ですから。
戦後に、墨人会という会の会合で
「石碑、拓本も書か」という
議論をしていた時代もありましたが、
それはね、完全に逆転しているわけです。
石碑、拓本が書であって、
それで後から手で紙に書いたものも書として、
認知されるようになったということなんです。
糸井
ああ、大逆転ですね。
石川
王羲之が書聖と言われるのは、
そういう意味です。
石に彫られたものが本当の書であった。
そこに手で書いたものの美を認めさせた、
それが王羲之です。
糸井
思えば、甲骨文字の時代からそうですものね。
石川
そうです。
ほぼ日の事務所は、本拠地じゃないですか。
青山墓地へ行ってごらんなさい、
手で書いたような文字なんかなくて、
全部、彫ってあるじゃないですか。
あれが本来の文字であって、
紙に書く書は、その代用をやっていたわけです。
糸井
石に彫ったものの中に、
ちゃんと書いた人の肉声に近いような、
何かが込められて残っているんですね。
映画を見て迫真の演技と言ったりしますけど、
あれはつまり、彫られた書ですよね。
そこで味わうものっていうのは、
起こった出来事についての共有ですよね。
石川
そうですね。
書を見れば、二千年前の人でも、
ちゃんと生きてきます。
王羲之だって、生きてきますから。
そんなに楽しいものはないです。
(つづきます)