経営にとってデザインとは何か。宮城県・女川町 篇
経営にとってデザインとは何か。
宮城県・女川町 篇
第2部青山貴博さん(女川町商工会)篇
第2回
プレハブが狭かったから。
──
震災直後、焚き火の前で
商工会の高橋会長と、観光協会の鈴木会長と、
謎の黄川田喜蔵さんの「三賢者」が
焚き火を囲んで酒を飲みながら、
復興連絡協議会の骨子を、つくりあげた‥‥。
青山
そのレジェンドたちのところへ、
毎朝、新聞屋の阿部喜英さんが通っていて。
──
そのお話、うかがってます。
町でゲットした情報を伝えてたんですよね。
青山
私は私で、毎夜毎夜、報告に行ってました。
──
朝が阿部さんで、夜が青山さんで。
青山
そう。
──
三賢者は、つねに焚き火の前に。
青山
そう、朝早くから焚き火をおこして、
夜はだいたい酒をくらってる。
──
震災当時の話なので、
こう言っては非常に何なのですが‥‥、
おもしろいです。
青山
黄川田賢者のFRKの骨子は
3月の彼岸すぎには完成していたので、
じゃあ人を集めますと、
すべての避難所を2週間かけて歩いて、
どこに誰がいるのか、
あるていど、把握したんですよ。
──
あらためて、「人を集める」だけでも、
「すべての避難所を2週間かけてまわる」
ことが必要だった‥‥んですね。
青山
会合を開いたのは、4月1日でした。

役場の商工観光課、
商業系、物販、小売、卸し、飲食、宿泊系、
サービス業系含め、
女川の産業界のみなさんを一堂に集めて、
「女川は、これから、
どうしていけばいいと思います?」と。
──
歴史の教科書に書いてあった、
昔の「デモクラシー」の風景のようです。
青山
自分の家も、営業用資産も、
何もかも流されてしまった人たちですけど、
放っといたって直るものでなし、
自分たちで何かはじめないといけないよね、
という点で、意思統一したんです。
──
ええ。
青山
そして2週間後の4月14日、
FRKの設立準備委員会を開いたんですが、
例の黄川田賢者の案を見た人々が
「え、これ何? 誰がいつ書いたの?」と。
──
ビックリしちゃって。
青山
ともあれ、黄川田賢者の案をベースに、
私がFRKの趣意書を作成しました。

当然パソコンも何もないので、
隣町の商工会の事務所へ押しかけて、
パソコンを借りて‥‥そうやって
4月19日に、女川町の復興連絡協議会、
通称FRKが設立されたんです。
──
協議会メンバーで集まれるような場所、
つまり事務所とか、どうしたんですか?

まさか、例の「焚き火の前」では‥‥。
青山
いえいえ、三賢者の一人の鈴木会長が、
震災直後、絶対に必要になるからと言って、
速攻プレハブを注文してたんです。
──
さすがは賢者!
では、みなさんで、そこへ間借りして。
青山
ええ。
山田
でも、どうやって調達したんだろう?
青山
青森から持ってきたらしい。

そのプレハブに、FRKを構成する
商工会、観光協会、買受人協同組合、
水産加工組合が、収まったんです。
山田
町内の主要団体がすべて、です。
青山
私らは、冗談で
「雑居プレハブ」って呼んでたんだけど、
実際、20坪弱の床面積に、
4団体をギッチギチに詰め込んだんです。
──
部室みたいですね。
青山
集まれる場所がそこしかなかったから、
そうせざるを得なかったんですが、
結果的に、
団体同士の連携が密になったんですよ。
──
なるほど、物理的に「近い」せいで。
青山
だからこそ、ちいさいけれども、
復興への第一歩が、踏み出せたんです。
山田
隣の声が聞こえる距離ですよね。
青山
隣の屁の音が聞こえる距離です。
──
それは‥‥密です(笑)。
青山
実際、こっちの誰かが屁ェしたら
「屁ェした屁ェした」って、
隣の団体が笑うくらいだったから。

「くせぇくせぇ」っつって(笑)。
──
ニオイまで筒抜け‥‥。
青山
ときには、そんな冗談もやりながらね。

でも、正直それまでは、
イベントのときに組むことはあっても、
団体同士おたがいに、
何やってんのか、知らなかったんです。
──
同じ町内でも、業界がちがうと。
青山
うん、それが、震災後1年間に渡って、
あの狭いプレハブで、
ワイワイガヤガヤやったことで、
おたがいに
「へえ、こんなことしてたのねえ」と。
──
自然と、
コミュニケーションを取るようになった。
青山
とくに、われわれ商工会というのが、
いちばんでっかい団体で、
みんながみんな会員にさせられてるけど、
何やってんのか、
イマイチわかんなかったと思います。

でも、そのプレハブ暮らしをきっかけに、
だいぶ、理解してもらえたんです。
──
なるほど。
青山
そこから団体間の協力体制が生まれて、
FRKの事務局がまとまった。

全員で問題の共有を図ることができて、
やるべきことが、見えてきた。
──
それもこれも、プレハブが狭かったから。
青山
まちづくりの原動力、
町のデザインを描くための道具が揃った、
という感じでした。
──
嫌でも顔を合わせる状況で、
女川の産業界全体で議論できたことが、
よかったんでしょうね。
青山
そう、商工会だからって
商工だけ考えてりゃあいいっていうと、
ちがうでしょ?

とくに、こういう大きな震災の場合は。
──
他との連携が必要ですものね。
青山
ええ、たとえ店や工場が建ったとしても、
そこに勤める人や、
商品を買ってくれる人がいなければ、
地域の産業って、成り立たないですから。
──
そんななか、高橋会長が
「これからのまちづくりには
 還暦以上は、口出しをしないように」
とおっしゃったそうですね。
青山
まあ、ようするに
若いもんにまちづくりを任せたい、とね。
──
会長は当時‥‥。
青山
還暦。
──
では、ご自身も含めて。
青山
自分たちの世代は、
この町を何十年も引っ張ってきたという
自負があるけれども、
復興には10年、20年かかるぞ、と。

で、20年後、自分が80になったとき、
ダサくて、古くて、使い勝手の悪い町を
若いもんに渡しても迷惑だろう、と。
──
なるほど。
青山
だから、今後の女川町のまちづくりは
30代、40代に任せる。

自分らは「弾除け」になってやる、
おまえらのケツ拭いてやっから‥‥と。
──
ご自身、まだまだ現役なわけですから、
なかなか言えないことだと思います。
青山
でも、私らからしたら、高橋会長なんて、
すでにして
「キング・オブ・キングス」なんだけど、
女川には、
「さらにその上」がいるわけです。
──
キング・オブ・キングスの、さらに上。
それだともう、「神様」ですね(笑)。
青山
そうそう、ほとんど「神様」です。
そういう長老たちの前で、言ったんです。

いくら高橋会長とはいえ、
怒られるんでねぇかとヒヤヒヤしてたら、
当の長老たちが、
「おおお、高政、いいこと言った。
うんだ、うんだ、そのとおりだ」って。
──
神様たちも大賛成で。
青山
みんな、こりゃあどうしようもねぇと、
思ってたんでしょうね。

ごらんのとおり、何にもねぇんだから。
自分らも命からがら生きてるなかで、
70、80になって、
まちづくりなんか到底できねぇべ、と。
──
30代、40代の人たちは、奮い立った?
青山
面食らいましたよね。むしろ。
──
そうでしょうね‥‥。
青山
若いもんだけで、
組織だってまちづくりをするというのは、
平時でさえ、やったことないんだから。

今まで、上の世代の手となり足となって、
鉄砲玉のようにはたらいてきたけど、
これからは、鉄砲玉を使っていた人らが
「弾避けになるから」と。
──
むしろ「鉄砲玉として使え」と。
青山
だから最初「えー!」とは言ったけれど、
「黄川田草案」に勇気づけられ、
議論をしていくなかで、
自分らの子どもたちのことを考えたら、
自分らががんばって、
自分らで新しい町をつくって、
将来世代に渡さねくてはならねぇな、と。

そんなふうに思えた時点ではじめて、
30代と40代は、
「奮い立つ」ほうへ変わっていきました。
山田
すごいなと思うのは、
実際に民間の人たちが立ち上がって、
行政に頼らず、
民間ベースで復興のビジョンを考え、
町をつくっていったところです。

もちろん、行政だって
何もしていなかったわけじゃなくて、
避難所のことや生存確認など、
優先順位があったから、なのですが。
──
役割分担、ですね。民間が攻めだとしたら、
行政は、守備の部分を担っていた。
青山
いまの女川町の須田善明町長が、
「行政を待っていたら
死んでしまうという気持ちがあったから、
民間が動いたんだ」
と、よく言われるんですけど、
そこまで悲観してたわけではないんです。

ただもう、単純に、
「行政は行政で、大変な仕事をしてる。
だから後手後手になる前に
自分らでできることからはじめよう」
という話なんですよ。
(つづきます)
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2016-11-11-FRI