ほぼ日刊イトイ新聞
華道 みささぎ流 家元
片桐功敦さんが生けた、
福島の花。
花/ひまわり 採取地/南相馬市鹿島区南柚木 器/縄文土器(深鉢) 小高区浦尻貝塚 縄文時代中期 大木9式
華道の流派「みささぎ流」の家元である
片桐功敦(あつのぶ)さんが
福島県の南相馬市に移り住んで、
そこに咲く花を生けました。
地元を何ヶ月も離れ、
見ず知らずの土地にアパートを借り、
野の花を生け続けた、華道の家元。
津波をきっかけに息を吹きかえした
準絶滅危惧種ミズアオイのこと。
自分自身や、華道家という職業、
花、震災、そして何より「いけばな」に、
正面から向き合ってわかったこと。
野に咲く花のように
静かだけど、力強いお話が聞けました。
担当は「ほぼ日」奥野です。
第1回 南相馬で花を生ける。2016年7月27日
第2回 顔の見える誰かがいるから。2016年7月28日
第3回 咲いているときより、美しく。2016年7月29日
片桐功敦(かたぎりあつのぶ)

華道家。1973年大阪生まれ。
1997年、24歳で大阪府堺市のいけばな流、
花道みささぎ流家元を襲名。
そのいけばなのスタイルは
伝統から現代美術的なアプローチまで幅広く、
異分野の作家とのコラボレーションも多数。
小さな野草から、
長年のテーマでもある桜を用いた
大規模ないけばなまで、
その作品群はいけばなが源流として持つ
「アニミズム」的な側面を掘り下げ、
花を通して空間を生み出している。
とじる
第一回 2016年7月27日 南相馬で花を生ける。
──
福島でのお仕事は、
ふだんの片桐さんの「いけばな」とは
何かが、違いましたか?
片桐
たとえば、花も違えば場所も違ったし、
場所の持つ意味合いも、違いました。

学んだこともたくさんありましたが、
やっていること自体は、
ふだんとそんなに変わらなかったです。
──
あ、そうですか。
片桐
もちろん、福島の沿岸部で、
そこに咲いている花を生けるってことが、
自分の「いけばな」を、
おそらく「いつもと違う」というふうに
見せるだろうなとは思いました。

花を生けるという行為自体も、
当然、「場所」の影響を受けますから、
心持ちとしても
ふだんと違うといえば、違いましたし。
──
ええ。
片桐
でも、僕がやっている作業そのものは、
ずっとやってきたことと、
そんなに大きく違うかって言われたら、
そうでもなかったですね。
花/雛罌粟 マーガレット 他 撮影地/南相馬市鹿島区右田浜
──
一連の福島でのお仕事は、
一見して「いけばな」のイメージとは
かなり雰囲気が違っているので、
どんな感覚だったのかなと思いまして。
片桐
地元の大阪にいても
そのへんに咲いている野の花を摘んで
生けることはあるんです。

そういう意味で、
行為自体に大した違いはないんですけど
花も、いろんなことを考えながら
生けていきますから‥‥
そうですね、違うというより、
新しい感覚があったことは、たしかです。
──
今回、福島の南相馬に移住して、
花を生けることになったのはなぜですか?
片桐
きっかけは、ミズアオイという植物です。

震災前は準絶滅危惧種だったんですけど、
津波によって
沿岸部が「潟」に戻ったことで、
もういちど芽をふいて、広がったんです。
──
絶滅寸前だったものが、震災を機に。
片桐
で、こちらにそういう植物があるんだけど、
生けてみる気はないかと、
福島県立博物館が主体でやっていた
アート・プロジェクトから、誘われまして。
──
今回のオファーを引き受けるにあたっては、
はじめ、どんな気持ちでしたか?
片桐
もう、ぜんぜん悩まず、
ほとんど即答で「行きたいです!」って。

たしか、声をかけていただいたのが
2013年の5月か6月くらいで、
現地へ行ったのが‥‥その年の9月かな。
──
福島へは、それまでは?
片桐
ご縁は、ありませんでした。

でも、ずっと気にかかっていたんです。
今、どうなっているのかなって。
自分のできることで、
その場所の助けになることがあったら、
やりたいと思っていましたから。
──
そこへ、お花のご依頼が来た。
片桐
自分のやっている仕事で、
来てくれないかと言っていただけたので、
応えたいと思いました。

で‥‥そんなふうに思ったのも、
震災当時、
自分のキャリアの中で最大の展覧会を、
準備していたんです、2年がかりで。
──
ええ。2年がかりとは、すごい。
片桐
震災の2週間後に、開始の予定でした。

でも、その当時は
いろんな場で自粛のムードがありまして、
賑やかしいことは止めておこうと、
どんどん、
展覧会のキャンセルが続いていたんです。
──
そういう時期がありましたよね。
片桐
僕の場合は、ずいぶん前から
展示に使う植物も手配していたりとか、
ずっと準備してきたので、
やめるわけには、いかなかったんです。
──
展示内容は、どのような?
片桐
3万本の桜の枝でつくる、
すごく大きなインスタレーションでした。
撮影/渞忠之
──
3万本!
そんなに、どうやって集めるんですか?
片桐
植物の卸問屋の「花宇」の前の社長に
1年越しのやりとりで
用意していただいていたんです。
──
花宇の前の社長‥‥というと
プラントハンター西畠清順さんのお父様?
片桐
そう、それだけの時間をかけてますから、
金額も、けっこうな感じになってまして。
──
それじゃキャンセルできないですよね。

ちなみに、展示した作品のことを、
もう少し詳しく教えていただけますか?
片桐
インスタレーションの高さは、
だいたい8メートルくらいになりました。

最初は、一分咲、二分咲くらいの状態で
桜を持ってきてもらって、
そこから4日くらいかけて生けたんです。
──
8メートルのものを、4日かけて。
片桐
すると、展覧会のはじまるタイミングで
三分咲き、
早い桜で五分咲くらいになっていて、
なんとなく、
全体に「フワーッと白い」、というかな。

会期は1週間だったんですが、
ちょうど中日くらいで満開を迎えたので、
その時点では
「真っ白い桜の滝」みたいになりました。
撮影/渞忠之
──
すごそう‥‥。
片桐
そこから、散る花びらは散っていったし、
咲いてくる花は、咲いてきました。

一方で「新芽」も出てきますから、
最終的には、
半分くらいがグリーンに変わった状態で、
会期の終了を迎えたんです。
──
見たかったです、その展示。
片桐
あれくらいのサイズになると
毎日の水やりが、けっこう大変でした。

朝、早くに会場入りして足場を組んで、
上から順に水をやるんですが、
だいたい、3時間くらいかかったので。
──
3時間!
片桐
夜の7時に閉場したあとも、
同じように、また3時間かけて、水やりで。
──
水やり1日6時間‥‥。
片桐
ともあれ、震災のずっと前から準備していた
インスタレーションだから、開催したんです。

でも、もともと
そういうつもりではじめたわけじゃないのに、
1万本2万本と桜を生けていくうち、
亡くなった人の数だけ生けているような‥‥
そういう気持ちに、
どうしても、なっていったんです。
──
目にする報道も、震災一色の時期だから。
片桐
そのこととまったく関係なしに、
何かをつくれる心境じゃなかったというか。
──
何かをつくっている人の多くが、
当時、同じことをおっしゃっていました。
片桐
展覧会を取材してくださるメディアの側も、
そういう切り口が多くて。

関西から被災地へ送るエール‥‥みたいな、
今回のこの作品を
どんなふうに世間に伝えたいか、みたいな、
そういう震災の枠組みで、ガッチリと。
──
ええ。
片桐
そのときに、僕は、こう答えていたんです。

たぶん今、被災地では、まだ春も少し先で、
多くの方が寒い思いをされている。
津波で、家や大切な人を亡くしてしまって、
なんというか、
自然を憎むしかない方も多いと思いますが、
でもやはり、震災も自然ならば、
こうして桜の花が満開に咲いている姿も、
自然なんだということを、
あらためて思い出してもらえたら‥‥って。
──
なるほど。
片桐
その思いは、
今も基本的には変わっていないんですけど、
「話の内容が不謹慎だ」とか、
「震災の影響のない関西にいる人間が
 被災地のことについて発言すること自体、
 不謹慎だ」とか、
そういうご意見をいただいたんです。
──
んー‥‥そうなんですか。
片桐
何か、すこし割り切れない気持ちになって。
──
そうですよね、それは。
片桐
まあ、そんなこともあったんですが、
展覧会には、高い評価をいただきました。

桜の展示は、ちょうど「10年目」で、
前々から
10年の区切りでやめるつもりでしたが、
評価をいただいたことで、
震災の翌年、桜をモチーフにした
チャリティイベントをやりませんか、と
声がかかったんです。
──
つまり、2012年の春に。
片桐
はい、場所は銀座の大きな宝飾店で、
あるジュエリーの売り上げを
すべて寄付するという趣旨だったんですが、
モニュメントとして、桜の作品を、
1カ月間、展示してほしいと頼まれました。

前年で終わりにしたつもりだったんですが、
もし、少しでも
何かの役に立つことがあるならと思って
協力させていただきました。
売上も数百万円はあったということでした。
──
すごい額です。
片桐
そのとき、何か違うなあと思ったんです。
──
え?
片桐
いや、東京の銀座という
華やかな場所でお金を集めて‥‥つまり、
震災から1年、
まだまだご遺体が出てくるような時期に、
震災の気配の消えた都会で、
お金だけ集めて被災地に持っていくことが、
なにか‥‥白々しく感じてしまって。
──
集まったお金はお金として、
現地の役に立ったんじゃないんですか?
片桐
たぶん、お金というより気持ちの問題です。

結局、被災地を支援するとか、
被災地に思いを寄せるとかって言ったって、
俺は、いいとこ、こんなもんかと。
震災のことが
全然、身近じゃなかったことに気がついて、
自己嫌悪に陥ってしまったんです。
──
そうなんですか。
片桐
いちばん大きかったのは、
まず、自分が、その土地を知らないこと。
知らないのに、表面的に、
東北の人たちに何かをするってこと‥‥。

すべてお題とパッケージが決まっていて、
自分はそのお題とパッケージを
完成させるために、何かを作ったような。
──
被災地のため、と言いながらも‥‥と?
片桐
やはり、自分のやれることで、
自分がやりたいと思うことでなければ、
何を作るにも、
思いを込め切れないと思ったんです。

で、「こんなんじゃ、ダメだな」って。
──
なるほど。
片桐
そこから1年間、被災地の仕事もふくめて
大きな仕事はお断りをして‥‥
もういちど
自分の花を生けることに、集中したんです。

大阪からまったく動かずに、
日々、花を生けて、教えているだけの毎日。
──
そんな生活を、1年間。
片桐
はい、2012年の春から1年間、
ずっと、そのような毎日が、続きました。

で、2013年の春を過ぎたあたりで、
今回の福島のお話を、いただいたんです。
花/薔薇 コスモス ひまわり 芙蓉 他 撮影地/浪江町請戸
<つづきます>
福島・南相馬での作品をまとめた
「Sacrifice」、発売中です。
片桐さんが、大阪から南相馬市へ通ったり、
住んだりしながら生けた
福島の花の作品が、一冊の本になりました。
名もなき人の長靴や、
砂浜や、縄文の器に生けられた花や植物の
美しさやあざやかさ、たくましさに
心を動かされます。
Sacrifice。
生贄、供物、捧げ物を意味するこの英単語は
僕の中にずっとあった言葉だった。
花を切り、いけるときにいつも感じていた
鈍い疼きのようなこの言葉の意味を、
南相馬での時間が明らかなものにしてくれた。
器に水を張り、いけた花が枯れるまでの
僅かな数日間をいけばなと呼んできたのが、
これまでとすれば、枯れた後を見届け、
いけた花を体に抱え込みながら次の花を探すことが
南相馬での時間だった。(本書より) 
花/芍薬 ドイツ菖蒲 採取地/浪江町市街地 器/獅子頭 南相馬市原町区下北高平 氷川神社で使用されたもの