ほぼ日刊イトイ新聞 すてきなふだん字。 葛西薫さんと「字」のことを話しました。

004)サン・アド家の一員として。
糸井 仲畑貴志くんが、サン・アドに入る前に
ナショナル宣伝研究所にいたんだけれど、
そのときに書いてたコピーっていうのは、
無茶苦茶だったんです。その不良が、
サン・アドに入ってから書いたものって、
全部違うんですね。
仲畑くんに聞いたんだけど、
上司だった品田正平さんが、
仲畑くんの机の上に、
例えばぼくが書いたコピーを
置いたりしたらしいんですね。
いじわるなんですよ。
「おまえ、ライバルいるぞ?」みたいな。
葛西 それは初めて聞いた話です。
糸井 もう一方で、この本は文体の見本だから
書き写せくらいのことを言ったのが
カレル・チャペックの
『園芸家12カ月』なんだそうです。
ぼくは、それを仲畑くんから聞いて、
その本をものすごく大事にするようになりました。
そういうことって、広告の練習をして、
マーケティングをして、
こういう人はこういうものを欲しがってるから
こういうもの売るんだよ、
という広告の作り方と、全然違いますよね。
葛西 全然違いますね。
ぼくも、品田さんには、鍛えられました。
品田さんは、言葉の人でもあるけど、
デザインにとても深い造詣がありました。
ぼくが、仙台の新聞で
編集仕立ての対談を新聞広告にする、
という仕事があったんですね。
学者をインタビューする記事が、
サントリーオールドの広告になるんです。
そのときに、全体をくくるタイトルがあって、
ヘッドラインがあって、見出しがあって、
本文があって、商品があるという、
ぼくなりに緻密なレイアウトしたんですよ。
ところが、品田さんがそれを見て、
本来はコピーのチェックだったのに、
「デザインがなっとらん」
って言うんですね。
「リーダビリティ(読みやすさ)がなっとらん」
と言うわけですよ。
新聞を読むときには、
こういうふうに目が動くだろうに、
ぼくのレイアウトは、
読者にちがう目の動きをさせる、
その動きは、変だろう、
「これはなんだ?!」って。
そのとき、ちょうどサン・アドに入ってすぐ、
運よくADC賞を獲ったんですよ。
糸井 自分でいい気持ちになっている時代ですよね。
葛西 ええ。
レイアウトについては
絶対人には言わせないぞという
自負心があったんですよ。
それがコピーライターというか、
言葉畑の人から、
ちくりと言われたものだから、
抵抗してしまったんですよ。
そしたらね、激怒して
「それでも君はADC賞作家かね?!」と。
それでも結局、ぼくは品田さんの
言うことは聞かなかったんですよ。
‥‥そのときは、ですよ。
でもそのあと、品田さんの助言が、
ぼくには響いちゃって、
リーダビリティということを
ものすごく気にしながら、
その後のそのシリーズを展開したんですよ。
最後、品田さんは逆に認めてくれて、
もともとは佐々木克彦さんという
コピーライターがコピーを書いていたんですけど、
「最後のコピーは、
 ぼくに書かせてくれないか」
って、そのヘッドラインを。
糸井 品田さんが。
葛西 ええ。「杜の都のアカデミア」
ってコピーだったんですけど。
それは逆に品田さんに認められたわけだし、
ご自分も参加したいというふうにまでなった。
‥‥サン・アドには、
そんなことがたくさんあるんです。


(クリックすると拡大します。)

糸井 学校ですね。
葛西 学校ですね。
糸井 流派とかにも近いですよね。
葛西 いろいろと教わりましたよ。
「その言葉は、この書体で組むのは変だろう」
とかね、サン・アドの名刺ってすごいんですよ。
これは品田さんから教わったことなんですけどね、
KASAI Kaoruというのはね、
全部大文字だけど、
先頭のKが大きくて、
続くA、S、A、Iが、
小文字くらいの高さになっていますよね。
Kがキャップと呼ばれる大文字で、
残りはスモールキャップって言うんです。
そしてKaoruのほうは、
イニシアルのKがキャップ、
残りは小文字です。
これは何を表してるかというと、
姓と名を表す方法らしいんですね。
まず姓名を逆にするのは、
Kaoru KASAIっていうのは、
よくないって言うんですね。
例えば、毛沢東だったら、
その読み方の通りの順になるんだから、
日本人は英語表記であっても
姓・名の順に表記するのが正しい。
その代わりこういう文字組みをしなきゃ、
判読できないはずだ、って。
品田さんという人は、
全くちゃんとした意味を知っていて、
その例を、他の文献からもってきたりして
説明してくれるんです。
活字の役割も、書体のことも知ってるんですね。
Garamond(ギャラモン)っていう書体なんですけどね、
それまで、ガラモンドって、ぼくは読んでたのが、
品田さんが、ギャラモンだよって。
なんでそういうことまで知ってるのかな、
というくらいに。

糸井 自分がいまやってる具体的な仕事の
背景にある部分というものを
勉強してきてる人たちがいるのが
サン・アドなんですよね。
いわばエリートの集いなんですよ、
サントリー文化圏のね。
開高健さんがいて、山口瞳さんがいて、
柳原良平さんがいて、いっぱいいますよね。
そこにいなかったぼくらにとってみたら、
やっぱり憧れだったんです。
そこを出た人は、そこの生徒だってことを
恥ずかしくないようにって思っていて。
葛西 そうなんですよ。
糸井 副田高行くんもそうかもしれない。
葛西 そういうふうになってるんでしょうね。
糸井 いま急に何十年ぶりに思い出したんですけど、
新潮社の仕事をやるときにね、
もとは、サン・アドでやってたんですよ。
あの仕事は。
サン・アドが降りることになった事情は
ぼくは知らないんですが、
ともかく品田さんが
ぼくに任せたいって言ったんです。
‥‥ぼく、品田さんのこと、よく知らないんですよ。
で、そのよく知らない品田さんから連絡があって
こういうことでよろしいかって。
ついては新潮社に一緒に行って
ちゃんと引き継ぐから、よろしくねって言われて。
葛西 すばらしいですね。
糸井 サン・アドの外にいて
バトンをタッチする人として
ぼくは選んでもらえたわけですから、
ものすごく光栄ですね。
この人が仲畑くんがよく言ってた品田さんか、
って、当時、ぼくは思いました。
葛西 それはいい話ですね。
品田さんもお家意識とかってなくて
ほんとにいい人に、
ちゃんと何かをするということで
筋を通す人ですから、
お金のこともまったく関係なく、
クライアントがなんと言おうと、
ぼくは、こうする、ということを、
守る人なんですよね。
糸井 あの時、確かプロデューサー的な仕事を‥‥
葛西 そうです。品田さんが担当だったんです。
糸井 ですよね。金勘定までも
品田さんがやってたはずなんですよね。
葛西 それで思い出しましたけど
サン・アドで、ぼくが企画して
「収穫祭」っていう社内イベントを
やったことがあるんですよ。
1年の最後の日に、
ひとりひとり今年の自分の収穫を
3分間スピーチするっというもので、
それを審査をするんですね。
みんなで。
そのときに、ゲスト審査員として
すでに独立していた
副田さんを呼んだんですよ。
品田さんはそのときサン・アドの
社長だったんです。
全部終わってから
副田さんが選評をしたときに、
サン・アドの思い出話にもしたんですね。
新潮社の仕事をしたときに
ものすごく、うまくいかなくなって
ぐちゃぐちゃになったことがあるんですけど
そのときに、普通だったら営業の人は
「まあまあ、そう言わないで。
 こうすればいいじゃないか」
というところを、担当営業でもあった品田さんが、
「これは君の好きなようにやりたまえ。
 それが一番の正解なんだから」
って、むしろ副田さんの背中を
ぽーんと押したらしいんですよ。
「何と言おうと、君の好きなようにやりたまえ。
 ぼくは、それを守るから」
って言ったんですって。
副田さんはそのときのことを、
「それがすごく、いまの励みになってます。
 そんな会社に皆さんは今いるんだよ」
と、品田さんの前で言ったんですね。
品田さんがそれを聞いた瞬間にね、
わーって、涙流して。
うれしかったんでしょうね、
わかっていてくれたかぁ、と思って‥‥。
この話はそのことがあってから
10年後かに副田さんに僕が教えてあげたんですよ。

糸井 全部思い出した。
つまり、ぼくは
サン・アドの人として
新潮社の仕事をしてたんだね。
葛西 そういうことかもしれないです。


2007-12-19-WED

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