最終回 同じ瞬間は、二度とない。
永田 オリンピックで金メダルをとることを
実況するのが、
刈屋さんがNHKに入ったときの
夢だったとおっしゃってましたが、
刈屋さんがアナウンサーになるまでの
経緯をうかがってもよろしいでしょうか。
刈屋 はい。ぼくは大学のとき、
早稲田大学のボート部にいまして、
隅田川でも漕いでいたんです。
で、そのときの経験から、
オリンピックのすごい瞬間を
いちばん近くで観られるのは
カメラマンだと思ったんですね。
永田 ああ、はい。
刈屋 オリンピックの写真をみると、
かならず「共同通信」と書いてあるじゃないですか。
ですから、共同通信のカメラマンになれば
現場にいちばん近いところで
すごいシーンが観られるのかなあという
漠然とした思いがあったので、
大学に入って3年くらいまでは
共同通信のカメラマンになろうと思ってました。
永田 アナウンサーではなくて。
刈屋 ないんです
永田 その前提として、
「スポーツを伝えたい」という
動機が最初にあったんですね。
刈屋 そうですね。スポーツには、
いろいろな要素がからんできますよね。
時代とか政治とか宗教とか経済とか。
そういうことがいろいろからんできて、
でも、最終的には人間と人間の勝負になる。
そういう、人間の本質みたいなところ、
そこでしか見られない人間のすごさとか、
あるいはもろさとか、
そういうところを近くで観たい、
というのがマスコミを目指した動機です。
それはさかのぼっていくと
小学校のときに観たメキシコオリンピックの
200メートルの決勝がきっかけなんです。
永田 メキシコオリンピック。
刈屋 はい。
メキシコオリンピックの200メートルで、
アメリカの黒人選手が
金メダルと銅メダルをとるんです。
その表彰式のところで、彼らは、
アメリカ国歌とともにのぼってくる星条旗に
黒い拳を掲げて、抗議するんですね。
そのときぼくは小学生でしたから、
それがなにを意味するのかわからなかったんです。
のちに、それが、黒人選手たちの
アメリカ政府の人種差別に対する
抗議だったとわかった。
これはなんだろう、というショック、衝撃。
そこから、オリンピック、
あるいはスポーツというものに
違った視点から、興味を持ちはじめた。
単純に勝った負けたではなくて、
そこに人生を賭けてきた人もいれば、
人種差別に抗議するために
オリンピックでメダルをとろうと
思ってきた人たちもいる。
そういうところを見てみたい、
ということが興味としてありました。
それで自分で陸上をやったり、
大学でボートをやっているうちに、
これからの時代、いちばん近くで
その瞬間をほんとうに観られるのは、
テレビじゃないだろうか、
というふうに変わっていったんです。
じゃあ、テレビのなかでも
その瞬間をいちばん近くで観られるのは
なんだろうと思ったときに
スポーツアナウンサーという道に
たどりつくんですね。
じゃあ、スポーツアナウンサーになろうと思って
大学3年のときにはじめて
アナウンサーを目指すようになったんです。
永田 その原点がメキシコオリンピック。
刈屋 そうですね、あれが原点です。
永田 それでほんとうに
オリンピックを伝える場にまでいかれて、
金メダルを得る場面にも立ち合われたと。
刈屋 そうですね。さっき言った、
NHKのアナウンサーになろうと思ったときの
夢がひとつ叶った瞬間ということに
なりますかね。
永田 そうかあ。
いや、またひとつ、いい話をお聞きしました(笑)。
でも、すべてのアナウンサーが
オリンピックの担当になれるわけではないですよね。
ましてや、金メダルに立ち合えるかどうかなんて。
刈屋 そうですね。
やっぱり本人の努力や適正もあるし、
大きな組織ですから、その局の環境とか
まわりがどうその適性を判断するかという
いろいろな要素がからんでくると思いますけど。
そういう意味でもぼくは
「ついてた」ということになりますかね(笑)。
永田 ははははは。
あの、ご自身はどう思われてます?
アテネの男子体操と、トリノ荒川選手と、
両方の金メダルを実況されたということを。
刈屋 いやもう、「ついてた」としか
言いようがないんじゃないでしょうか。
永田 ふーーむ。
刈屋 体操でも昔の日本の黄金時代に
しゃべっていれば
金メダルに立ち合えたんでしょうけど、
それをすべて失って、低迷して、
メダルも逃してきた時代ですから。
トリノも荒川選手が
メダルをとれるかもしれないとは
思っていましたけど、
まさか金メダルをほんとうにとれるとは
思いませんでしたから。
永田 でも、「運がいいですね」とか言いながら、
自分で違うなと思ったんですけど、
考えてみれば、刈屋さんは、
金メダルをとっていない中継を
たくさんやってらして、
金メダルをとった試合は
あくまでそのなかのひとつなんですよね。
刈屋 ま、そうなんです(笑)。
永田 フィギュアといえば、
刈屋さんがずっとやってらっしゃって、
そのフィギュアでついにとったわけだから
そこに刈屋さんがいるのは
当然といえば当然なんですよね(笑)。
刈屋 うん、そうとも言えますけれど、
まあ、ついてましたよ。
たとえば今回だって、
男子フィギュアの実況をすることだって
考えられたわけですし。
そういう放送局どうしの割り振りもありますから。
それはいろいろなめぐり合わせで
どう変わるかわからないです。
体操もそうです。ぼくは体操は、
それまで女子を中心にやっていましたから、
アテネでは、はじめてオリンピックで
男子をしゃべったときに金だったんですよ。
そういうめぐり合わせもありますから。
永田 でも、オリンピック以外では
男子体操を担当されてたわけでしょう?
刈屋 やってます。
永田 そうでなければ、しゃべれないですよね。
オリンピックにしても、アテネとトリノだけ
担当されたわけではないですし。
刈屋 オリンピックは7回めかな。
バルセロナ、アトランタ、シドニー、
アテネ、長野、ソルトレイク、で、トリノですね。
永田 やっぱり、運だけじゃないですよ(笑)。
刈屋 ただ、やっぱり運はありますよ(笑)。
カーリングのカナダ戦にしても、
当初、ぼくは貧乏くじをひいたというか、
「絶対に勝てないだろう」
という試合だったんですね。
カナダは前の大会の金メダルで、
トップレベルのチームでしたから。
ところが、実際は、日本がカナダを破るという
歴史的な試合になってしまったわけですし。
永田 うーん(笑)。
じゃあ、運もお持ちだと。
刈屋 (笑)
永田 最後に、アナウンサーという職業や、
スポーツの実況ということにこだわらずに
刈屋さんが気をつけていることとか
信念のようなことがあれば
教えていただきたいのですが。
刈屋 そうですねえ‥‥‥‥。
「同じ瞬間は、二度とない」ということでしょうか。
たとえば、フィギュアスケートでも、
同じ滑りは、二度とない。
スルツカヤをずっと見ていたとしても、
同じスルツカヤは、二度とない。
野球でも、サッカーでもなんでも、
同じ勝負は、二度とない。
そういうことをつねに思っていないと、
勝手に自分の経験にあてはめたりとか
これはこういうものじゃないか、
みたいなかたちになっちゃうんですね。
だからほんとうに、もうこれは一回しかない。
自分の人生のなかで、この瞬間しか出会えない。
そういうことですね。
永田 そういう意識で取り組んでらっしゃると。
刈屋 はい。
もう、ほんとうに、一回しかないと思って。
永田 それはスポーツに限らないのかも
しれないですね。
刈屋 そうですね。
永田 はあ‥‥あの、たのしかったです(笑)。
刈屋 どうもありがとうございました。
永田 どうもありがとうございました。
あの、握手してもらっていいですか(笑)。
刈屋 (笑)
   (連載はこれで終了です。
 お読みいただき、どうもありがとうございました)


2006-06-30-FRI

(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN