第19回 井上怜奈選手の取材。
永田 刈屋さんが実況に臨まれるときには
事前にすごく下調べをして、
実況用の分厚いノートをつくっている
とお聞きしましたが。
刈屋 そうですね。はい。
取材は欠かせないですね。
永田 放送中に活かせないことも
たくさんあるんでしょうね。
刈屋 そうですね。
でも、我々はもう、テレビという
仕組みのなかで生きているわけですから、
それはもうしょうがないと
割り切るしかないですね。
永田 それをまとめてどこかに
発表するようなことは?
刈屋 ないですね。
ぼくが調べたほとんどの資料は
埋もれたまま、なくなっちゃいます。
永田 もったいないですね!
刈屋 もったいないですね(笑)。
永田 なにか、放送中に乗りきらなかった話で、
印象的なものがあれば教えてください。
刈屋 そうですね‥‥。
今回のトリノでは、取材しながら
泣いてしまったことがありました。
永田 それは?
刈屋 フィギュアのペアの井上怜奈選手について
取材していたときのことなんですけど。
井上選手についてはご存じですか?
永田 ペアをもとめてアメリカに移住したとか、
肺ガンを乗り越えて出場したとか‥‥。
刈屋 そうなんです。
ぼくはご本人からもそういう情報を
いくつか聞いていたんですけど、
今回、現地でお母さんとじっくり
お話しさせてもらうことができたんです。
そこで、ぜんぶの情報を確認できて、
これはもう、すごいことだな、と。
永田 よろしければ、教えてください
刈屋 井上選手はリレハンメルとアルベールビルに
15歳と17歳で出ているんですが、
その後3回めのオリンピックを目指すとき、
長野オリンピックのシーズンの始めに
お父さんが肺ガンで亡くなってしまうんです。
お父さんの応援が井上選手のスケートの
大きな支えだったものですから、
そのお父さんがいなくなったショックで
彼女は長野オリンピックの代表争いに
まったく力を発揮できずに破れてしまう。
そこで彼女は一回スケートをやめちゃうんです。
お母さんとしては、
もうやめて当然だなと思っていたらしいんですが、
ある日、突然、井上選手が
スケート靴を持って練習に行くんですって。
どうして彼女がスケートをもう一度
はじめる気になったのかということが
お母さんにはずっとわからなかった。
それが、今回、全米の代表になって
いろいろなインタビューに
彼女がこたえていくなかで、
「お父さんがいなくなって
 落ち込んでいるお母さんを
 元気づけようと思ったから
 もう一度、はじめようと思った」
ということがわかった。
お母さんはそこではじめてそれを知るわけです。
だから、お母さんはトリノに
応援に来てるんですけど
もう、ぜんぜん演技を観られない。
で、その後、スケートを再開した彼女は
ペアを求めてアメリカに行くと言い出す。
アメリカでとにかくがんばってらっしゃいと
送り出すんだけれども、お金がないんです。
それで彼女がアメリカで何をやったかというと
日本のお土産売り場でアルバイトをしながら
そこからレッスン代と生活費をやりくりする。
なにしろ、競技に出るにも衣装が買えないですから
布を買ってきて、自分で縫っていたそうです。
自分で縫ってると、たとえば、ある大会では、
ビーズをつけるのが間に合わなくて
ショートプログラムのときには
半分のビーズをつけて滑って、
その翌日にはビーズが増えてる、
そんな状態で試合に出ていたんです。
そういうふうに試合に出てるときに
彼女は肺ガンにかかるんです。
幸い、当時のアメリカには、
最先端の抗ガン剤があったので、
その病院に行って、とにかくその
抗ガン剤をうってくれと言って治療をはじめた。
ただ最先端とはいえ、強い抗ガン剤だったので
ものすごい副作用があったらしいです。
でもその副作用に耐えながら練習を続けた。
しかも、入院はしていないんです。
通いで抗ガン剤をうったんです。
その抗ガン剤をうちながら
アルバイトをして、レッスンをしてという
くり返しだったんですって。
そんなわけでフラフラしてるから練習中に
落下して頭蓋骨を骨折して、
前歯がほとんどなくなってしまうような、
5時間くらい意識不明になる大けがをして。
そのときに落ちた後遺症で
心的外傷後ストレス(PTSD)にかかって
わけもなく突然涙が出たりだとか
そういうことにずっと苦しんで。
それが治ったと思ったら
今度は、落ちたショックで
卵巣を片方破裂させて卵巣摘出を受けて。
そこから治って、
ようやくペアがうまくいってきて
最後のチャンスというか
オリンピックをかけたショートプログラムで
4位と出遅れてしまう。
もう絶望的ななかから
はじめてのスロー・トリプル・アクセルを
フリーで決めて、
大逆転で全米チャンピオンになって、
トリノオリンピックに出場してきたんです。
‥‥すごい話でしょう?
これほどすごい話が実話としてあるのかという。
永田 ‥‥いや、すごいです。
刈屋 すごいですよね。
ぼくもいろいろな選手を知っていますし、
すごい選手もたくさんいますけれど、
ほんとうの意味ですごいと思いました。
それをぼくはお母さんとじっくり話して
すべて確認できて、
もうね、いや、すごいなって。
やっぱり日本の宝ものというか、
こういう女性がいるということを
知ってほしいなと思ったんです。
永田 井上選手の演技の最後、刈屋さんは
「この井上の演技が、日本の宝です」
とおっしゃっていましたが、
そういう気持ちが込められていたんですね。
刈屋 はい。
だってすごいと思いません?
こういう女性がいるって。
でもその本人と話すと
ふつうのあっけらかんとした
明るい、華奢な女性なんですよ。
彼女のお母さんは、トリノに来た当初、
長いあいだ苦労をかけていたことを知って
ほとんど演技をまともに観られなかったそうですが、
井上選手の経緯と生き方を知って、
だからこそ彼女が
いまここに立っているんだということを理解して
ようやく落ち着いていると、
そんなふうにおっしゃってました。
永田 刈屋さんのひと言ひと言が
観ている人の心に響くのは、
そういう取材をとおしての裏づけもあるんですね。
やっぱり、言葉の背景にあるものが大きいというか、
言葉がきちんと重さをともなっているというか。
刈屋 でも、雑誌とかいろいろなところから
集めた情報はそのままは使えないですよね。
永田 ああ、確認をしないと。
刈屋 はい。
今回のエピソードも、
井上怜奈さんのお母さんと
じっくり話ができたことによって
はじめて放送に使えたわけですし。
永田 それはそういった
放送の決まりがあるというわけではなくて
刈屋さん個人としての部分ですか。
刈屋 そうですね。個人として。
過去の記録や結果といった事実であれば
引用して使いますけれど、
エピソードとか談話ということになると
ほんとうかどうかというのがわからないですから。
永田 そういう仕事っぷりというのが
刈屋さんの実況ファンの多い理由かなと思います。
ご本人を前にして言うのもあれですけど(笑)。
そのときに、いい試合で、いいフレーズを
たまたま言ったからというだけで
人はそんなに感動できないと思うし、
にじみ出てくるそういうところを観ている人は
感じてるんじゃないかなと思うんですけど。

2006-06-29-THU

(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN