撮られた人が、
「じぶんをちょっとすきになれる写真」
が写せたときは、胸が熱くなる。
どういうことか、説明させてほしい。
わたしに「写真を撮ってほしい」と言ってくれるひとは、
ちょっと悩んでいる場合が多い。
ううん。ちがう。
もしかしたら、悩んでない人間なんて、いないのかも。
ただカメラを向けて話していると、
悩みや気になることが浮かび上がってくる。
それだけのことなのかもしれない。
「標準的な体型じゃなくて」
「じぶんの笑顔がすきじゃない」
などなど、見た目が気になるひと。
「仕事が行き詰まっている」
「家族との関係がギクシャクしてる」
気持ち的にモヤモヤが溜まっているひと。
「ただただ、カメラが苦手で困ってるの」
きっぱり言うひと。
なにかに区切りをつけるために、
ポートレートを求めていたりする。
ただでさえ、撮られることは簡単ではないのに、
いろんな事情を抱えながら、わたしの前に立ってくれる。
精一杯の勇気をもって、だ。
悩みを打ち明けてくれるひとを、
わたしはファインダー越しに見つめ、
全身にあふれるうつくしさに心をつかまれる。
なんでだろう、
ただ話しているより、カメラを介しているほうが、
相手を近く感じる。
ことばにできない「なにか」を共有していることを
強く意識する。
そんな時間がすきだ。
話しながら写真を撮っていると、気づかされる。
悩みはチャームポイントでもある。
「ここがすてき!」とわたしが言うと、
「そこがコンプレックスで」と打ち明けられることが
けっこう多いのだ。
悩みは、きっとうつくしさの種だ。
そう思うと、もう老若男女関係なく、
撮らせてもらったすべてのひとが愛おしい。
ちょっと、熱苦しいかもしれないけれど、
本心だ。
話を聞きながら写真を撮ったあと、
深く悩んでいるひとには、
あらためて伝えるようにしていることがある。
「いまのあなたは、ちょっと苦しい季節にいるんですね。
でも、いまのあなたも、じゅうぶん、とってもすてきです」
写真は、時間を切り取る。
時間は、過ぎゆくもの。
いまの苦しみや悩みは、いまのもの。
未来のものじゃない。
時間はかならず過ぎ、ひとも変わっていく。
写真はそんな当たり前のことを思い出させてくれる。
だからポートレートはすきだ。
それから。
写真は、光を切り取る。
すべての時間に輝きがある。
光がないと、写真は真っ黒にしか写らない。
昼でも夜でも、そのひとが光のなかにいるから、
わたしはシャッターを切れるのだ。
だからポートレートはすきだ。
「じぶんがすてきなはずがない」
そんなふうに思ったり、
わたしの言葉を信じられないひともいる。
怒涛の勢いで褒めまくるわたしを、
過剰な態度だと思うひとも。
でも、写真という証拠を見せると、
話はちょっと変わる。
絵じゃない。機械が撮ったんだから。
ある意味、わたしよりずいぶん信頼できるのだ、
カメラってやつは。
撮られたひとが
「ちょっとじぶんのことが、すきになりました」
と言ってくれることが、たまにある。
わたしがすきでやっているのに。
とても楽しんでいるのに。
だからポートレートはやめられない。
誰かのチカラになれる、
ポートレートの魔法。
コミュニケーションの手段として、
誰かの悩みに寄り添う手段として、
わたしにとってポートレートは大きな存在だ。
撮り終わったあと、
家に帰って、撮った写真を眺めていると、
じわじわとよろこびが増していく。
そんな時間もすきだ。
写真には賞味期限がない。
いつまでも味わえる。
それどころか、時間が経つほどに、
「一緒に過ごせたこと」の重みが増して、
切ないほどうれしくなる。
ときどき、過去のポートレートを見返して、
相手に会いに行った気分に浸ることもある。
二度と会えないひとも、
写真のなかでは変わらず佇んでいる。
そんなところも、ポートレートのすきなところだ。
誰かとつながり、誰かをもっとすきだと自覚できる。
写真があってよかったなあ。
ここまで書いてみて、あらためて思った。
わたし自身、じぶんのことがすきになれなくて、
写真を撮られるのもきらいなのに、ヘンなの、と。
でも、ちょっと待てよ。
こころのなかを、じっくり探る。
「あれ? わたし、じぶんのことすきになってきてるかも?」
「写真に撮られるのも、前より苦手じゃなくなってきてるかも?」
これって、どうしてだろう?
(つづきます)