「撰ぶ(えらぶ)」の漢字について、ちょっとした発見があった。
つい先日、選ぶことについて書くぞと決めてから、ふと思い立って、
「選ぶ」という言葉の意味を調べたのだった。
それで、はじめて「撰ぶ(えらぶ)」が持つ意味を知った。
常用漢字ではない「撰ぶ(えらぶ)」の字は、
「詩文をつくる」とか、「編集する」という意味も持っているのだという。
大辞林第3版にも「編集して書物にまとめる」という記載があるそうだ。
編集は、「言葉を撰ぶ」ことなんだ。
自分のなかで、すとんと胸に落ちた。
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わたしは、言葉を選ぶのがすきだ。
編集者やライターの方々を前にしたら言うのは畏れ多いけれど
できるできないは別として、言葉を選ぶことがすきだ。
仕事でメールをするときには、わかりやすいよう文章の順番を入れ替えたり
確認してもらいたい項目に番号をふる。
Twitterの短い文章でも、どうしたら届いてほしい人に読んでもらえるか
10分以上悩んでいたりする。
誰かに見せるわけでもない日記ですら、
自分の感情をどうにかそのまま表現できないかと
懸命に言葉を選んで書く。
日常生活で言葉を選ぶ場面のなかで、特別ときめくのは「手紙」だ。
手紙を書くときは、相手に伝えたい気持ちが、できるだけそのまま、
まっすぐに、その温度感で伝わるように、言葉を選ぶ感覚がある。
時間はかかるし、決して楽ではないけれど、
手紙では口頭でうまく伝えられないことを
じっく考えて、考えて、言葉にできる。
手紙を書き終えて「自分の気持ちを言葉にできた!」と
いう瞬間のよころびは大きい。
だから手紙を書くときには、つい言葉を選ぶのに時間をかけてしまう。
自分で書いた手紙を「恥ずかしくて読み返したくない……」
という気持ちになることも多々ある。
が、それで相手に伝わったならそれでよし!と思うことにして、
家族や大切な人には手紙を書いている。
書くのと同じか、それ以上にすきなのが、手紙を読むこと。
すきな人や家族にもらった手紙は、いまも大切にとってある。
その人が選んでくれた言葉はぜんぶがうれしくて、
その言葉や文字までもが愛おしくなる。
手紙を読んで思うのは、誰かを思って書いた文章や言葉の尊さだ。
手紙の価値は、文章が得意とか字が上手とか、
そういった要素にあるわけじゃなくて、
誰かを思って言葉を選んだ気持ちがあるからこそ、
グッとくるものがあるんだと思う。
もしかしたら、誰かを思って書いた手紙こそ、
言葉選びの最骨頂なのかもしれない。
文章を書くときは、その誰かに手紙を書くような、
言葉を「撰ぶ」ような気持ちで書いていけたらいいな、と思う。
