もくじ
第1回恋は残酷 2017-11-07-Tue
第2回ドキンちゃんが「バイキン城」を出たなら 2017-11-07-Tue
第3回「気づかないヒロイン」と訪れない最終回 2017-11-07-Tue
第4回本当は気づいているとしたら 2017-11-07-Tue
第5回私の「ばいきんまん」 2017-11-07-Tue

「ものを書くこと」と「ものを買うこと」が大好きな、ライター兼webプロデューサー。テレビ局を辞めて、いまは「ものづくり」に関する記事をまとめています。息をするように買い物ばかりするので、いっぱい働かねばなりません。

私の好きなもの、やなせたかしさんが描く「恋」

私の好きなもの、やなせたかしさんが描く「恋」

担当・中前結花

第5回 私の「ばいきんまん」

私には「ばいきんまん」のような
「日常のぬくもり」「実は、なくては歩けぬ杖」は
ないのだろうか。
ひとつの影がよぎる。
 
誰かを想うときは、
その想いに薪をくべるように私を奮い立たせ、
またその関係性があえなく散るときはそばにいて、
「こんな私でも必要だ」と
ギリギリのところで持ちこたえさせてくれる。
日常に自信や喝を与え、時に救ってくれる、
そんな存在がいつもそばにあった。
 
「仕事」だ。
 
数年前、母に病気が見つかった。
それからはすべてがあっという間。
「あと3ヶ月ぐらいだ」と医師に真面目顔で言われた。
ひとり娘の私は仕事も暮らしも
すべて東京に広げたまま関西に戻り、
結局2ヶ月ほど母と病室で最期に二人暮らした。
夜は気を抜くと、不安で天井に吸い込まれそうになった。
不思議なもので、そのとき考えていたのは、
あの「スリッパの音」のことだった。
この先どんな日も、どんなに頑張っても、
もうキッチンを歩きまわる「パタパタ」という音を
聞くことはないんだと思うと、
押し殺しても押し殺しても嗚咽が漏れた。
いちばんたいせつな「日常のぬくもり」を
失うんだと思うと、
もうなにもかも終わってしまうように感じられた。
 
なんでも話せる人だった。
大学を卒業して家を出てからも、
駅からの帰り道に毎日のように電話した。
仕事のことを話すと、メモを録りながら聞いてくれた。
2度目に名前を出す同僚のことは「ああ、人事部のね」と
メモを見ながら相槌を打った。
「お母さん、たのしそうな仕事の話を聞くと元気が出るわ」
そう言ってくれた。
電話をつないだまま、 よくいっしょにドラマを見た。
560kmも離れた東京にいても
「日常のぬくもり」はあたたかかった。
あの日、それをすべて失った。
 
それからは途方に暮れる毎日だったけれど、
東京に戻ればまた仕事が押し寄せてきた。
忙しくしていると、すこしだけ不安がやわらいだ。
「こんな連載、はじめようかな。企画書を書こうかな」
久しぶりにそんな気持ちが芽生えたときは、
ちゃんと浮き足立った。
いちばん苦しいとき、仕事が私を支えてくれたのだ。
「仕事」もまた、
私にとって「かけがえのない日常」だったのだと
そのとき気づき、心から感謝した。
 
だから、私は「仕事」をがんばりたい。
面倒でも億劫でもがんばりたい。
なにかのとき「仕事」が、
また私を助けてくれるかもしれない。
そんなかけがえのない、
「仕事」の側面を私は知っているからだ。
  
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
私にとって、ばいきんまんのようなパートナーは、
今は「仕事」なのかもしれない。
もちろん普段は疎ましく思うこともあるけれど、
根底の部分で私を支え、
日々の苦楽を共にしてくれる存在だ。
 
それじゃあ最初から「私の好きなもの、仕事」と
書けばよかったのかもしれないけれど、
これは仕方ない。言いたくなかった。
私もまた勝気でどうしようもなく負けず嫌いだからである。
 
今日も石油王との出会いや放浪に憧れている。
モルディブの水上でなにもせずに暮らしてみたいし、
遠いものはきらきらとうらやましい。
でもきっと、私には
逃げても逃げても追っかけてくる「仕事」が似合っていると
本当は心の底でちゃんと知っている。
 
(おわり)