いつの頃からだろうか。
わたしは、何かを好きだと公言するには、
「誰にも負けないくらい、好きで好きでしかたない」
ファンにも似た気持ちが必要、という定義ができていた。
好きだと公言している人たちと比べ、
「わたしのほうが好き」と言えるエピソードと、自信が必要だった。
そんな風だから、いつも何かと比較した中で、
好きかどうかの尺度を、はかることになった。
おかげで、好きだと言えるものは、必然的に減っていった。
この作家さんのことを好きだけど、毎回新刊を買っている人と比べたら、
買ってないわたしは、好きといえるのかな……?
映画は好きだけど、映画館に行くことは少ないから
興味がある程度なのかも……、といった具合に。
それは仕事においてもそうだった。
先輩と比較すると、わたしはそこまで夢中になれないから、
この仕事はむいていないのかもしれない。
そんなに好きじゃないんだ。
そう決めつけて、勝手に挫折した。
自分がワクワクするとか、面白いと思えるとか、そういう尺度が
よくわからなくなっていた。
自分の気持ちに、つねに疑心暗着。
いつも他人の物差しをつかって、自分の気持ちをはかっていた。
だから、自信をもって、好きだといえるものに出会った(気づいた)のは
久しぶりのこと。
自分の感覚を思い出したようで、ちょっと嬉しくもあった。
ところが、だ。
ある日、ほぼ日刊イトイ新聞を、ゆるゆると見ていた。
そのとき、ふと目が止まったのは「偏愛の人。」というコンテンツ。
目が止まった理由は、明白だった。
偏愛の相手は、たまごだったのだ。
読んで焦った。
あらゆる面でこだわっていて、あきらかにわたしより
たまごを研究している。
銘柄とか云々ではなく、たまごそのものを愛しているのが伝わってきた。
そして、よくよーく世間を見渡してみると、
偏愛的にたまごを好きな人たちが、いることがわかってきた。
本屋では、たまごのことだけを書き綴ったエッセーをみつけたし、
それは、とても売れていた。
その本を、手に取る気にはなれなかった。
また、好きを比較する自分に、戻っていた。
あきからに、自分よりもたまごが好きな人が、こんなにいる。
わたしの「好き」は、やっぱり甘かったんだ。
これじゃぁ、人よりちょっと好き、程度だ。
そうおもった。
すっかり、たまごに失恋したような気分だった。
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たまご好きという自信を失った日、「ゆでたまご」をつくった。
その日は、しっかり時間を計って、ゆでた。
そんなことをしたのは初めてだった。
いつも、なんとなくこれくらいかな? とカンで、ゆでていたから。
沸騰したお湯に、たまごをそっとおとす。
きっかり7分。
タイマーの音がなったら火をとめて、冷水につける。
殻はツルリとむけた。
まだ、ほんのりあたたかいたまごに塩をかけて、パクリと一口。
オレンジ色のきみがトロリと溢れ出る。
わたしが一番好きな、半熟のゆでたまごだった。
「あぁ、やっぱり……たまごが好きだな」
心の奥からそうおもった。
別に、誰かと比べるわけじゃなく、ただただ好きだとおもった。
いったいわたしは誰と、何と、勝ち負けを争っていたんだろう。
勝手につくった、勝手な戦いに自分を巻き込んで、
楽しさを奪っていった自分自身が恨めしかった。
30歳すぎて、何を考えているのか……と
自分を呆れるような気落ちもあったけど、
よくわからないうちに入っていた肩の力が、
フッと抜けたようだった。
そして、わたしの中の戦いで“負け”と判断されて、
「好き」から除外されたものたちと、
もう一回向き合ってみようかなと思った。
改めて言いたい。わたしの好きなものは「たまご」だ。
一番好きなのは、「ゆでたまご」とか「オムレツ」とか
たまごが主役の調理法だけど、たまごプリンとか、
たまごカステラとかにも、大いに心を惹かれる。
これは、本当にありがたいことだが、体質的にコレストロールが低い。
おかげで、これだけたまごを食べていても、
健康診断でひっかかったことがない。
まぁ、蓄積するといつか数値にでてくるかもしれないので、
年老いても、好きなだけたまごを食べられるように、
健康には気をつかおうと思う。
明日の朝ごはんは、目玉焼きにするつもりだ。
少し多めの油をひいたフラインパンに、たまごを2つおとす。
縁がカリカリになって、美しいウェーブを描いたら、
あとは、「きみ」が好みの固さになるまで、
目を離さないで、たまごをみつめるだけ。
あぁ、想像するだけで幸せ。
そして、それを幸せだと思える自分が、やっぱり幸せ。
今は心から、そう思う。
(おしまい)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
本文中で紹介した「偏愛の人。」。
この作品に出会ったおかげで、たまごをさらに好きになりました。
お気に入りの、コンテンツです。
「好き」を、思い出させてくれたもの
