ほぼ日刊イトイ新聞

ほぼ日刊イトイ新聞 創刊20周年記念企画 糸井重里、 ほぼ日の20年を語る。 乗組員があれこれ質問しました。

おめでとうございます。ありがとうございます。
なんと‥‥ほぼ日刊イトイ新聞、創刊20周年です!
いやぁ、すごいものです。びっくりします。
1998年6月6日、ほぼ日が創刊してから20年です。
思えば、ほぼ日にも、いろんなことがありました。
お客さんも、コンテンツも、商品も、
そして、働く乗組員たちも、ずいぶん増えました。
この20年、どんなことがありましたっけ?
もともとのほぼ日って、どうでしたっけ?
節目のこのときに、せっかくだから、
振り返って語ってもらおうと思います。
糸井さん、この20年、どうでしたっけ?
乗組員の質問にこたえるかたちで、
糸井重里がこの20年を自由に語ります。
会場をおめでたい雰囲気で飾りつけましたが、
語られる内容は、けっこう真剣で、
乗組員たちもどんどん引き込まれていきました。

第7回
青朋ビル時代 #1東日本大震災をきっかけに。

──
2011年の年明けから、
ほぼ日は青朋ビルに引っ越します。
ここでのおもな出来事はこういう感じです。

山中湖合宿 日藝ワークショップ
東日本大震災 ブルータス糸井重里特集
三國万里子の編みものの世界。
野球で遊ぼう。 黄昏ブータン編
気仙沼のほぼ日 気仙沼さんま寄席
気仙沼ニッティング 100のツリーハウス
2月29日はサボるが勝ち! かないくん
土屋耕一のことばの遊び場。
糸井さん、僕を「面接」してください。
APUへ研修旅行 マジカル気仙沼ツアー
ものが生まれる瞬間フェス
カロリーメイツ台湾3日間の食の旅
ミグノンの友森さん。 気まぐれラジお
なかしましほさんfoodmoodほぼ日支店
知ろうとすること。 ただいまお米栽培中!
40歳は、惑う。AERA×ほぼ日
活きる場所のつくりかた
TOBICHI ほぼ日の塾

糸井
引っ越して数ヵ月で震災が起きたんですよね。
まあ、こうして全体の流れで考えると、
ほんとに、区切りのキリトリ線が
くっきりとここに入るみたいに、
東日本大震災を境にいろいろと変わりました。

2011年の年明けを振り返ると、
引っ越したあと、久しぶりに
社員全員で山中湖に行って合宿をやるんです。
そのあとは、日藝でワークショップを開催。
どちらもふだんはやらないことで、
「なにかこれまでにないことをやらなければ」
という危機感を感じてのことでした。

で、取材がほとんど終わっていた
BRUTUSの糸井重里特集号というのが発売直前で、
ほんとうに、ほぼ日がひと区切りした、
というようなタイミングで
3月11日がやってくるんです。
どういうんでしょうね、そのめぐり合わせを、
うまく言うのが難しいんですが‥‥。

そのころのほぼ日は、どこか、
自分達のポテンシャルを
持て余しているところがありました。
ここまでのまとめでも言いましたけど、
お客さんも増えて、社会性を帯びてきて、
大きくなったりもしてるんですが、
ぜんぜん触ってない場所もあるし、
鍛えてない筋肉もあるということを感じていて、
ちょっとダルさを感じていたんです。

毎日、おもしろくやってるんですけど、
いつもそれじゃつまらないだろうというか、
ある日、終わっちゃう可能性もあるぞというか、
社内に漠然とした満足感みたいなものが
あったのがヤダなぁとぼくは思っていて、
ほんとの俺たちはもっともっといいはずだぞ、
と言いたかったんですよね。

その「もっといいはず」というのが
なんなのかというのは、
なかなかわからないことだけど、
とにかく、自分たちのできることと、
したくないことみたいなものを見極めて、
惰性じゃなく、動きたかったんですよね。

だから、希望がほしかったんじゃないかな。
希望が欲しくて合宿をして、
答えはすぐに出なくてもよくて、
まずは合宿したこと自体に意味があった。
同時に、もっと違う場所に出て行きたい、
という意思もぼくにはあって、
ほぼ日に親しんでくれている人の場所に
ずっと安住していることに、
ちょっとした危うさを感じていたんです。

それで、ぜんぜん得意じゃないんだけど、
大学生を相手にしてみようと思って、
日藝でワークショップをすることにした。
これも、合宿といっしょで、
やること自体が大きな価値だったので、
なにをするかというのは、
ほとんどその場で考えるような感じでした。

まあ、それはとてもうまくいったんですよね。
学生たちに混ざって、
梅佳代とか、BOSEくんとか、
坂本美雨ちゃんとかを呼んで、
その場で隣の席の人にインタビューしてもらって。

ようするに、「ライブ」をやったんですよね。
これまでの練り込んだコンテンツじゃなくて、
「演奏」に近いものを、その場で考えてやって、
エモーショナルな部分で
わーっていう盛り上がりをつくりたかったんです。
で、それは、結果的にうまくいった。
みんなでいっせいに隣の人とハグしたりしてね。

人と人をつなげて、高揚する場をつくって、
ああ、本質的なことができたな、
という手応えがあったんです。
参加した人たちからもすごくいい反響をもらって、
こういうことって、ほぼ日では
うまくかたちにできてないなと思った。
逆に言うとまだまだできるぞ、と。
でもまあ、具体的な道までは見えてなくて、
それが、ほんとに、3月8日かなんかで。
その数日後に、東日本大震災が起こりました。

いってしまえば、ほぼ日というのは、
なくなると生活が成り立たないぞ、
というものではないんです。
必須アミノ酸じゃなくて、
ビタミン剤みたいなものだと思うんですよね。
だから、「要らない」って言われたら
まったく仕事は成り立たない。
そして、そうなってしまう可能性だって大いにある。

もう、みんな忘れちゃってますけど、
3月11日の東日本大震災のあとって、
節電でいろんな場所が暗くなったり、
テレビの民間のCMがぜんぶなくなったり、
いろんなイベントが自粛でなくなったりしたんです。

そういうなかで、ほぼ日というビジネスは、
なくなるかもしれないぞとぼくは覚悟しました。
だって、東京にはもう住めない、
ということまで真剣に言う人がいましたからね。
ぼく自身はなにかをやめたり
変えたりするつもりはなかったけど、
やっぱり、社長という立場にいますから、
会社がなくなることだってありうる、
そういうふうには、いったん、思いました。

金曜日に震災が起こって、
土日でいろんなことをものすごく考えて、
月曜日にみんなを集めて、
とりあえず、ほぼ日がいまなくなったとしても、
2年間は給料を払いますって宣言しました。
みんながどのくらい心配してたのかわからないけど、
とりあえず、絶対に給料が出るって知ったら、
落ち着いて考えられるじゃないですか。

その意味では、しばらく給料が払えるぞ、
ってきちんと言えるくらい、
会社が稼いでいてよかったですよね、
冗談じゃなくて、蓄えがまったくなかったら、
コンテンツや商品がしばらく止まるだけで、
会社はいったん解散です、
ってなってもおかしくないですから。

ああ、だから、これも言いながら気づきますけど、
会社を上場させる意志が固まったのは、
東日本大震災の経験がかなり大きいですね。
この会社を潰さないほうが社会のためだ、
って思いましたし、自分だけじゃなく、
人に思ってもらう必要性も感じたんです。
だから、やっぱり、大きいんですよ、2011年は。

ぼく自身は震災のとき、
そういうふうに考えていたんだけど、
会社ではみんなどうだったんですかね?
そのへんはぼくはまるで憶えてない。
逆に質問だけど、永田くん、
あのときはどうだったんですかね?
永田
そのときのことを思い返すと、
ぼくらの仕事はふつうに続いたんですよ。
糸井
やっぱり、そうだよね。
永田
はい。
というのは、翌日の更新のためだけに
なにかを急いで集めて組み立ててる、
みたいな仕事をぼくらはやってないので、
やるべきことをやるだけ、というか。

本質的になにかをつくる、
というようなことが、
じつはほぼ日の仕事のほとんどなんですね。
震災によって、発売日をどうするかとか、
表現が不謹慎じゃないかとか、
アウトプットにまつわることは
いろいろ気を遣いましたけど、
むしろ、アウトプットは内容に合わせて
どうとでもなる、というのが、
ほぼ日の基本的な仕事のやり方なので、
大きくいうと、みんなの日々の業務は
それほどは変わらなかったと思います。
糸井
要するに、毎日やってるバケツリレーを、
いつもどおりやってたんだよね。

▲震災の翌週には起ち上がっていたリンク集。
「東日本大震災のこと。」

(つづきます)

2018-06-12-TUE