糸井 ぼくのちょっと年上の人の話なんですが、
結婚当初、よく奥さんが
泣いてたんですって。
ところが旦那のほうは、
こいつはあまりにも幸せだから泣いてるのかと
思ってたらしいです。
旦那のほうは、想像もしてない。
宮本 私と同じですね。
私は、トイレの中で
いつも泣いてました。
糸井 宮本さんは、なにに対して泣いてたんですか?
宮本 もう、ありとあらゆることで泣いてました。
糸井 はははは。
宮本 伊丹さんは私を
自分の思うような女房像そのままに
しようと思ったんでしょう。
だけど、私はことごとくできない。
料理でも、皿が違うとか、
そもそもこの料理がどうとか言って
手つけてくれませんからね。
「ごはん、なにつくろうかしら?」
なんて言うと
「そういうことは聞くもんじゃない」
「何時に帰るんですか?」
と言うと
「そういうことは聞くもんじゃない」
糸井 ぶぶ(笑)。
宮本 なんにも聞けないんですよ。
だから、すごくさみしいでしょ?
しかも厳しくて緊張があって、
ほんとにたいへんだったなぁ、
と思います。
糸井 きついなぁ。
宮本 はじめのうちだけですけどね、
悲しくなって、泣いてました。
糸井 普通だったら泣かないで、
逃げますよ。
オレなら逃げられてます。
伊丹さん、いい人と結婚したなぁ。
宮本 私は逃げないもの。
糸井 そう、宮本さんは逃げないんですよ。
伊丹さんはそれがわかってたんです。
その意味では宮本さんは、
泣きながらもしつこいです。
宮本 はい(笑)。
夫婦は添い遂げるもんだと思っているので、
我慢しました。
糸井 恋人時代は、
そういう要求はなかったんですか?
宮本 恋人のときは、もう
毎日おいしいものを食べに
連れていかれただけ(笑)。
糸井 とうとう見つけたと
思ったんだろうなぁ。
きつい新婚時代を一緒にいられたことは
あとになって活きますよね。
そのときに「まぁいいよ」と言ってたら
宮本さんは、ふたつの現場は、
こなせなかったろうと思います。
宮本 きっとそうでしょうね。
糸井 宮本さんは、ほかの監督の
いろんな現場を経験してらっしゃいますが、
伊丹さんが映画監督として
違うのはどういうところですか?
宮本 まずは、監督が思っている人物像に
俳優がきちっと入らないとダメなんです。
だからそのぶん、厳しいです。
セリフも「てにをは」が
一字まちがっててもダメだし、厳密です。
私は、正直に言うと
ほかの組に行ったときのほうが楽でした。
それくらい厳しかったです。
だけど、それだけ厳しいのは、
私のためだし、
ありがたいと思ってました。
糸井 うん、うん。
宮本 一回注意されたら、
もう二度と同じことは
言われないようにしようと思うから、
ものすごくムキになって(笑)、
それで鍛えられたと思っています。
向こうも、ほんとに
すっごい目で見てたと思いますけど(笑)。
糸井 怖いなぁ。
宮本 プロデューサーの細越さんが
「伊丹映画1本が、ふつうの3本分だ」
っておっしゃってました。
そのくらい厳しいの。
有名な話なので
糸井さんはご存知かもしれないけど、
『マルサの女』の小道具のハンカチを
100枚ぐらい用意したときも、
「ダメダメ」「ダメダメ」と全部ボツです。
もう伊丹組の映画なんかやりたくないって
スタッフのみなさん、だいたいへたばるんです。
ほかの俳優さんたちも、雑巾みたいに絞られた!
というくらいに絞られます。
だけどやっぱり、
次の仕事でオファーがないとさみしいし、
伊丹組の仕事は、したいんですよ。
しんどいですけど、達成感があるから。
糸井 そんなことを言ってみたいですよねぇ。
宮本 ワンカットの積み重ねが
どのくらい大事かを
知れば知るほど、よくわかりますし。
ひとりが、
「こんなのいいじゃないの、わかんないから」
と言ってそのままにしたことがあれば、
ほんとにそこが、映画のなかで
よくないんです。
やっぱり、みんなが、
ガーッと同じところに行って、
いちばんいいものを出すと気分いい。
糸井 それをずっとくり返してきて、
ぎくしゃくしないのは、
できあがりがいいとわかってるからですね。
宮本 絶対大丈夫、祝福されると思う、と。
だからみんながその気になる、
そうすると、
いい空気が生まれると思います。
糸井 いつだって、希望に満ちちゃうわけでしょ。
宮本 はい。
だけど、最初はほんとうに心配だったんですよ。
伊丹さんが監督として受け入れられるか、
私も女優としてちゃんと力が出せるのか、
チームワークはうまくいくのか、
お金のことは‥‥まぁ、どうだっていいや、
全部やってしまってからのことだから。
そういうことをいろいろ、
現場で、解決していったんです。
糸井 そんなことを味わっただけで、
生まれた甲斐があった、ぐらい
言いたいですね。

(続きます!)
column伊丹十三さんのモノ、コト、ヒト。

40. 伊丹さんと、精神分析。

伊丹さんは、44歳の時、
一冊の本と衝撃的な出会いをします。
それは、新進気鋭の心理学者、
岸田秀さんの『ものぐさ精神分析』
(1977年 青土社)です。

そのころ育児に目覚めていた伊丹さんは、
子育てを通じて、自分とは何か、子育てとは、人生とは、
といったことについて深く考えていました。

そんな時、
“すべての人間が本能が壊れた状態で生まれており、
 文化という松葉杖をついて何とか適応している。
 社会的な価値や自己評価は、
 赤ん坊の時に母親との関係で形づけられる。”
という考えの岸田さんの論に出会って、
伊丹さんは、「自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、
目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めた」
そうです。

この言葉は、のちに出る『ものぐさ精神分析』の文庫版
(1982年 中公文庫)に、
伊丹さんが解説として寄せた文章にあるのですが、
伊丹さんはこの解説で、当時、非常にセンセーショナルな
ものとして受けとめられていた岸田さんの論を、
わたしたちにも解りやすいように翻訳してくれています。

たとえば、
「われわれは人生の初期において親や社会からさまざまな催眠術をかけられる。(中略)あたかも催眠術にかけられた人物の如く、失敗を恐れたり、誰かの賞讃を当てにしたり、いつしか人を道具にしたり、ともすればさまざまな防衛を張りめぐらして自分の中に閉じこもったり、常に自分を無価値なものと感じたりして生きるのだ。」
といったところなどです。

この本と出会った翌1978年には、
出版社から持ち込まれた企画にのって、
岸田秀さんとの共著
『哺育器の中の大人[精神分析講義]』
(朝日出版社「LECTURE BOOKS」)を上梓します。

岸田さんの講義を伊丹さんが聴くという体裁ですが、
超読書家で勉強家であるこの生徒に、
岸田さんもたじたじとなることがおおかったそうです。
わたしたちは伊丹さんの的確な質問によって、
岸田理論を深く知ることができるようになっています。

その後も伊丹さんは精神分析にどんどん傾倒していきます。
岸田さんとの蜜月時代はずっと続き、
精神分析をテーマにした雑誌、
『モノンクル』(朝日出版社)が創刊されるのは、
伊丹さんが『ものぐさ精神分析』に出会った
4年後の1981年でした。

その前後にも伊丹さんはたくさんの学者や専門家と対談し、
人の心の不思議さを解き明かそうとこころみます。

1980年、佐々木孝次さんとの対談の書
『快の打ち出の小槌 日本人の精神分析講義』
(朝日出版社「LECTURE BOOKS」)では日本人にとっての
オイディプスコンプレックスや母親との関係を語り合い、
1990年出版の『倒錯―幼女連続殺人事件と妄想の時代』
(ネスコ発行 文藝春秋発売)では
岸田秀さん、福島章さんとの鼎談で、
当時大ニュースとなった事件の犯人の生い立ちから
犯罪を起こすに至る心理、
人間の性衝動や攻撃性などについて探っています。

こういったアプローチは『モノンクル』とも同調しており、
いかに伊丹さんが精神分析にはまっていたかがわかります。

ちなみに『モノンクル』が創刊された80年代前半は、
哲学や文化人類学、社会学が流行し、
「ニュー・アカデミズム」という
一種の社会現象が起きはじめた頃でした。

岸田秀さんもその旗手のひとりとして注目され、
活躍されていましたが、
伊丹さんはそちらの道を選ばなかったようです。

思えば、伊丹さんの精神分析はあくまでも実学であり、
自分と他者との関係をテーマとしていました。
伊丹さんの精神分析にまつわる対談や
著作は普遍的で、わたしたちがいつ読んでもおもしろいのは
そのためではないでしょうか。

伊丹さんはこれらを血肉とし、
映画『静かな生活』で登場する「人は人の道具ではない」、
という言葉や、『マルタイの女』における、
宗教にはまる心理の分析に、その影響が見られます。
(ほぼ日・りか)

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参考:伊丹十三記念館ホームページ
   『伊丹十三記念館 ガイドブック』
   DVD『13の顔を持つ男』
   『伊丹十三の本』ほか。



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2010-02-11-THU