ほぼ日刊イトイ新聞

いのくまさんのこと。猪熊弦一郎と猫、そしてその生活。

1993年まで生涯現役で活躍した、
猪熊弦一郎という画家がいます。
名前をはじめて聞く、という人も、
三越デパートの白地に赤い模様の包装紙や、
JR上野駅中央コンコースの壁画を描いた人、
と聞けば、ああ! と思い当たるかもしれません。
パリ、東京、ニューヨークに暮らし、
数多くの作品を発表した猪熊さんは、
同時に猫好きでも知られていて、
猫をモチーフにした作品も多いです。

ということで2月22日の猫の日企画、
今年は猪熊さんの猫の絵を取り上げます。
「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」にうかがって、
学芸員の古野さんに猪熊さんと
猫の話をたくさん聞いてきました。

いっぽうで、猪熊さんの魅力は、
「猫好き」という側面だけでは語りきれません。
みんなに「いのくまさん」と呼ばれて
親しまれたその人柄も、
猪熊さんの最後の作品ともいえる
広くてあかるい美術館も、
なにもかもがすてきだったんです。
全5回のうち、第2回までは猫の話を中心に。
以降は、猪熊さんにまつわる話を幅広くご紹介します。

第5回 アートへの敬意。

(3階の展示室前に移動。
この日は荒木経惟さんの展示をしていました)

古野
ここ3階は天井高が7メートルあるんですけど、
そもそも5メートルだったものを
猪熊が「まだ低い」と言って、
谷口さんが天井を取っ払って
梁を見せる構造に変えて、
7メートルにしました。
そのぐらい大きくて広々とした空間に
猪熊はしたかったんです。
――
たしかに、普通の高さじゃないですね。
古野
猪熊の展示に対する考え方に、
「ゆったり見せる」というものがあるんです。
絵をゆったり掛けて、説明文もなるべく少なくして、
空間全体も一つの作品として考えてほしいと。
それまでの日本の美術館というのは、
ぎっしり詰めて展示するものが多かったので、
開館当初はめずらしかったんです。
――
いろんな面で、先駆けだったんですね。
古野
はい。今だったら「インスタレーション(空間展示)」
という考え方も知られてきましたけどね。
ただ、この展示方法は、
そのぶん作家の実力が出るんですよ。
2階の展示室には自然光が入るし、
空間が作品を助けてくれるような面があるんですけど、
ここ3階は作家の実力がバーンと出ます。
それだけの実力がないと空間に負けちゃうんですね。
展示して実感しましたが、
やっぱり荒木さんはすごいです。全然大丈夫。

▲3階の展示室。

――
美術館の裏話を
こんなふうにうかがえて、
とてもおもしろいです。
古野
裏話というと、
私が個人的にこれはすごいなと
思っていることがあって、
この美術館の建物には、
前面に馬の壁画があるんですけど、
ぜんぜん落書きされないんですよ。
――
落書きをされない?
古野
はい。すごいことだと思います。
1回だけ、鉛筆で何かがちっちゃく
書いてあったことがあるけど、
消しゴムで消せる程度のものだった。
――
そう言われると、すごいことですね。
アートに対する敬意のようなものが
人々のなかに無意識に
あるのかもしれないですね。
古野
そうだと思います。
逆におかしなエピソードがあって、
この美術館、
工事中はずっと幕で覆われていて、
壁画は見えていなかったんです。
それが初めて御開帳になる日、
幕がぱっと取れたら、
ものすごい勢いで
役所に電話がかかってきたんですって。
「壁に落書きがされてます!」って(笑)。

▲市民から「落書き」と思われた外観。

――
(笑)
おもしろすぎます。
猪熊さんが描いた馬の絵が、
落書きだと思われたんですね。
古野
ワンワンかかってきたそうですよ。
「壁にいたずらされてるけど大丈夫!?」って。
――
でも、最初こそ落書きと思われるところから
はじまったものの、
その後はどんどん市民にも
受け入れられていったんですよね。
古野
なじんでくれたと言うか、
それがあたりまえになってきたと言うか。
そこもすごく大事なポイントです。
そもそも、猪熊が最初に考えた壁画は
馬ではなく、「○」と「×」だったんです。
手描きで、いろんな太さの線で、
ラフに「○×○×○×」と描いただけ。
それが役所にFAXでペロンと届いて、
担当者があわてて、
「これは先生、難し過ぎます」
というようなことを言ったら、
猪熊は怒らない人だったけど、
初めてそこでちょっとムッとして、
「もっと勉強してもらわないと困りますね」
と言ったそうです(笑)
――
(笑)
古野
だけども、やっぱり「○×」は難し過ぎると
説得されてあの馬の絵になったそうです。
でも、猪熊がなぜ「○×」にしたかったというと、
「絵は子どもでも描けるよ」
ということをまずは言いたい。
もうひとつは、
そんな子どもが描いたような絵を
あのサイズの壁に「絵」として完成させるのが
画家の仕事だという、
その両方を表したかったんです。
「○×」でも馬の絵でも同じで、
一見落書きに見えるけど、
実は考えてつくっているんです。
ーー
あの馬の絵に、
そんな思いがあったんですね。
そして、館内もすごく考えられていますよね。
古野
はい。
街の風景をちょっと
取り入れているのも特徴です。
建築家の谷口吉生さんは、
ニューヨーク近代美術館「MoMA」の
リニューアルにも携わったんですよ。
ーー
MoMA!
そうなんですか。
古野
MoMAのリニューアルにあたって
建築家を決めるときに、
MoMAの担当者が世界中の美術館を見て回って、
10人ぐらいの建築家がまず選ばれたんですが、
そのときに谷口さんが選ばれた理由の一つが、
ここの美術館だったんです。
それで谷口さんが候補に挙がって、
最終的にコンペを勝ち抜いたんです。
なので、ニューヨークのMoMAも
ディテールがところどころ、ここと似ています。
谷口さんの建築って、死に場がないというか、
どこを見ても美しいんです。
ーー
いつ来ても光がきれいに入って、
広くて気持ちがいい空間だと感じます。
古野
谷口さんはたくさんの美術館を
手掛けてらっしゃるんですけども、
もう10年以上前ですが、
ある記事の中で「私の1点」というものを
選ぶ際に、ここを選ばれていました。
猪熊と一緒につくったことが
ご本人にとっても
楽しかったのではないかなと思っています。
――
そうなんですね。
ここの美術館はいつも企画展示が
新鮮でおもしろくて
東京にいても話題になっているのを
よく耳にするんです。
企画はどのようにして生まれているんですか?
古野
学芸員みんなで案を出しています。
そもそも猪熊が
「現代美術館」という方針にしたから、
現代美術を展示しないといけないんです。
なかでも、海外で注目されているのに
日本であまり知られていない作家とか、
著名な作家でも新作を展示する、とか、
「今、見てほしい」人を紹介したいと考えています。
ただ、一方で行き過ぎると
良さが伝わらなかったりするので、
いつも試行錯誤でやってます。
――
そうそうたる人が訪れているようですね。
ソニアパークさんもいらっしゃったとか。
古野
あ、それはホンマタカシさんの
個展のときのオープニングですね。
あの日は本当すごくて、
東京の青山がそのまま丸亀に来たみたいでした。
ソニアパークさんも岡尾美代子さんも
いらっしゃったし、
ほかにも横尾香央留さんとか、
すてきな方たちがたくさん。
そういう方々が来てくださるのも、
猪熊の考え方が先取りだったからじゃないかなと。
――
猪熊さんの理想がつまった
器としての美術館が、
いろんな人を呼んでくれているんですね。
古野
ここで働いていると、
何か守られている感じがあります。
時代の波があるから、
そうそう思うとおりにはいかないですし、
財政的なこともあるので難しいけど、
100年後にも核として大事なところが残せるように
最初に猪熊がよくよく考えたんだと思います。
――
100年後にも残るように‥‥。
古野
それと同時に、時代に合わせて変えていくのも、
すごく大事だと思うんです。
猪熊自身が新しいものに開いていく人ですし、
明るく前向きな猪熊の姿勢と合うものが、
ここには合うんですね。
そうそう、「ほぼ日」さんとご縁のある方も
猪熊に関わることが多いんですよ。
あーちんもそうですし。
――
え、あーちんも?
古野
東京の初台にあるオペラシティで、さきほどの
『いのくまさん』という絵本の展覧会をしたときに、
まだ小さかったあーちんが猪熊の絵を見て、
「好きに絵を描いていいんだ」ということに共感して、
で、自分もどんどん思い切って
描いていこうと思ったんだそうです。
それで、今度小学館から出版される猪熊の本に、
あーちんも参加してくれることになりました。
あと、坂本美雨さんも寄稿してくださったんです。
――
へぇー! 知らなかったです。
たしかに、あーちんはいつものびのびと
絵を描いてますもんね。
古野
だから、「ほぼ日」に丸亀の方が入った、
というのを「すごいお母さん」の記事で知って、
いつかここにも取材に来るんじゃないかと思って、
待ってました(笑)。

▲「ここで働いていると、
日々猪熊のすごさを感じるんです」と古野さん。

ーー
ああ、うれしいです。
こちらこそいつか取材させていただきたいと
ずっと思っていました。
猫の話も、美術館の話もとてもおもしろかったですし、
あらためて猪熊さんのすごさ、
遺されたものの大きさを感じました。
今日はどうも、ありがとうございました。
古野
こちらこそ。気をつけて帰ってくださいね。

(終わります。最後までお読みいただき
ありがとうございました。)

2018-02-26-MON

東京で展覧会が行われます!

猪熊弦一郎展 猫たち

題名不明 1987年 インク・紙

2018年3月20日(火)ー 4月18日(水)会期中無休
開館時間:10:00ー18:00(入館は17:30まで)
毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)
場所:Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷・東急本店横)
入館料や前売券などはこちらでご確認ください。

猪熊弦一郎展 猫たち

猪熊弦一郎 猫画集 『ねこたち』
リトルモア刊
 定価:本体価格1,800円+税

猪熊さんの猫愛にあふれた作品の
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取材協力:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)

タイトル:題名不明 1944年 インク・紙  背景:題名不明 1986年 インク・紙
※作品画像はすべて丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵
©The MIMOCA Foundation
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