…ま、それも「学校」の話。伊集院光✕糸井重里 …ま、それも「学校」の話。伊集院光✕糸井重里
面白くて笑ってばかりだったんですけど、
伊集院光さんと糸井重里の対談があったんです。
公開対談でね、そう、「ほぼ日の學校」の!

テーマが一応「学校」なんですけど、
関係なさそうな話がどんどん出てくるんです。
円楽師匠の話や『粗忽長屋』の話になったり、
伊集院さんの奥さんと糸井の共通点が語られたり、
謎の旅の話をしたり、窓ガラスに鳥がぶつかったり、
だいぶ下品なたとえ話が登場したり。
‥‥でもふと気づくと、いつのまにかそれが
「学校」や「学び」の話にもなっていて。

ふたりが掛け合わさると、こんなふうに話が
広がっていくんだ!という驚きのある全15回。
ま、どうぞ、ごらんください。
11.「ま、」とも言えますし。
糸井
このごろ「寛容」って言葉が
だいぶ使われるようになってきてて、
僕は嬉しいんですけど。


多田富雄さんというアレルギーや免疫の
研究者の先生がいらっしゃって。
僕は自分が喘息だったときに、その先生の
『免疫の意味論』という本を読んだんです。


そこに書かれていたことを
単純に言うと、外部から敵が来たときに
やっつけるのが「免疫」で。


それでその「免疫」が、
外から入ってきたやつに対して、
そのままスルーさせてやればいいのに攻撃して、
攻撃しすぎたところが
荒れ地になってしまうのが「アレルギー」ですと。
伊集院
はい。
糸井
その先生が晩年、体が病気で
すっかりダメになってしまって、
最後は瞼の開け閉めで言葉を発してたんですけど、
亡くなるときに
「『寛容』というのがすごく大事なんだ」
というメッセージを表しているんですよね。


いまの時代ってみんな「アレルギー」で、
「あれは違うよ」っていうのが来たら
もうボコボコにやるみたいな時代で。


「どうして? そのへんちょっと、
見なければいいんじゃないの」
みたいなのが「寛容」ですよね。
写真
伊集院
きっと、何度もイヤな思いをしたんだと思うんです。
些細なことで攻撃されて、
立ち上がれなくなったような経験がある人は、
些細なことでも「攻撃されたらどうしよう」って、
まさにアレルギー的な過剰防衛をしちゃうし。


また、その過剰防衛で傷ついた人が、
次を過剰防衛していくっていう
ことでもあるんでしょうねぇ‥‥。


でも、本当ですよね。
「寛容とはなにか」みたいな。
糸井
そこはすごく大事なんだと思うんです。
伊集院
僕、バリバリ江戸っ子で落語までやったから、
東京弁や関東弁や江戸弁とはべつのものとして、
「標準語」を捉えてるんですけど。


標準語にはない、
僕が関西弁でいちばん好きな言葉が、
うちのカミさんやみうらじゅんさんが言う、
「しゃあないやん」って言葉なんです。
糸井
ああ、なるほど。
伊集院
江戸弁だと「仕方あんめえよ」って
あるんですけど、それはもう使わないから。


標準語の「仕方がないですね」と
「しゃあないやん」はまったく違うでしょう。
糸井
違いますね。
伊集院
「しゃあないやん」って「寛容」ですよね。
負けてるわけでもなく、
人に対して何か威嚇してるわけでも、
諦めてるわけでもない。


標準語で「しゃあないやん」に
近い言葉ないなぁって思うんです。
写真
糸井
そうですね、東側では何なんでしょうかね。
「ま、いっか」っていうの、
僕はけっこう好きですけど。
伊集院
ああ、「ま、いっか」。
そうですね。
「ま、」が入ってる分だけいいですね。
糸井
「ま、」とか使うのはだいたいいいですよね。
会場
(笑)
糸井
僕は自分が文章を書くときでも
「ま、」はものすごい使います。
伊集院
「ま、そういうことで」みたいなね。


そういう終わり方をしとくと、
「まだ全部じゃなくて
いっぱい面白いことあるんだけど」
の感じが出たりとか。
糸井
「ちょっと乱暴なまとめ方になるけれども」
みたいなときに
「ま、とも言えますし」と言ったり。


その「ま、」はね、じつは僕ね、
感覚で文体を覚えたんじゃなくて、パクリなんです。
コピーライターの元祖みたいな
土屋耕一さんという方がいらっしゃって、
僕はひとりで師匠だと思ってるんですけど。
彼がボディコピーの文体のなかに
「ま、」を入れてるんですよ。
伊集院
へぇー。
糸井
もうちょっと言うと、短い言葉をぽんと置くときに、
丸(句点)を打つのも土屋さんがやったんですよ。
「渇きに。」っていうのがあって。
「丸打つかぁ!」って若いときに思って、
自然に僕は真似をするようになったんです。
伊集院
いろんな文章に「ま、」入れてみたいですね。
硬い文章に「ま、」って。


薬の効能書きとかも最後
「ま、1日3回」って書いてあると。
会場
(笑)
糸井
それこそ、その文章に
「ま、お元気で」って。
伊集院
そういうことですよね。
入れてみたらちょっとやわらかくなったり、
間を持たせられたり。


だから今日、全体に流れてるテーマでも
ありますけど、
その「寛容」みたいなことが
「標準語にするときになくなった」って、
ちょっと奇異な気がしません?
要するに、
「情報伝達を正確にしよう」と思ったときに、
曖昧な感情表現みたいものって
ちょっと邪魔なんですよね。
糸井
標準語って「作った言葉」で、
いわゆる「人造言語」だから、
全部の意味を、ロジックで対応表みたいに
できちゃうんじゃないですか?
伊集院
でたぶん、いろんなところから
いろんな価値観の人が上京してきたりとか、
いろんなことを伝達したりしてくるときに、
情報として
「なるべく正確に伝わったほうがいいだろう」
ってやるから。
糸井
間違いないように、って。
伊集院
それで「しゃあないやん」がなくなって、
「仕方がないことですね」にしちゃうんでしょうね。
写真
糸井
‥‥あの、こういう場所で喋るのも
なんですけど、
地元の言葉で猥談をすると、
ほんとにいやらしいんですよね。


地元に帰ったとき、ラーメン屋で
同級生がバイトをしてて、
先輩とそういう話をしてるのを聞いてて、
「きついなぁ‥‥」と(笑)。
伊集院
あの、俺、中学校ぐらいのときに
エッチな本にあったセリフで、
「キスしてほしい」って言葉を
「キスばしちゃってんや!」
って書いてあったの。福岡弁なのかな?


もう友達の間で大流行しました(笑)。
泥臭い、「チューしてよ」より、
生々しい泥臭切実さがあって(笑)。


でも、おそらくあれは「感情」なんでしょう。
糸井
そうですね。
伊集院
その「感情」をダイレクトに伝えてるから、
それが過剰なときには
「わわわっ、来た!」
って感じになるんでしょうね。
糸井
心が言葉になってるんだと思うんですよ。


まあその、いつのまにか
「エッチ」って言葉が流行っちゃって、
あれに全部関連化させちゃったんで、
気軽に「エッチ」できるようになりましたよね。
伊集院
そういうことか。
あ、ややこしいものを
ちょっとデオドラントしてる。
糸井
そうですね。
パッケージに入れて、デオドラントでっていう。
伊集院
デオドラントもどうにかしてほしいんだよな。


お高いジンギスカン食べて、
「わぁ、まったく癖がない!」って
言うときあるじゃないですか。
会場
(笑)
伊集院
それ、食べなければいいじゃんと思うんです。
じゃあ牛肉とかを食べればいいじゃん、って。


あとなんですか、
魚食って「お肉みたーい」って。
写真
会場
(笑)
伊集院
お肉を食べればいいだろうそれは、
と思うんですけど。


でもやっぱり「癖がない」は
褒め言葉として使われてますけど。


鮮度の落ちた匂いとかとは違う、
癖はあっていいと思う。
糸井
価値の体系があるなかにそれを入れなければ、
意味づけができないからだと思うんで。


たとえば僕なんかでも、
「簡単に使わないほうがいいだろうな」
と思う言葉はたくさんあって。


たとえば「愛」って言葉があるおかげで、
いま、愛に似たもの全体を
「『愛』って言ってればいい」に
なっちゃったじゃないですか。
「愛がないからね‥‥」って
コマーシャルもありますけど。
「愛」っていう手前のところのいろんなものを、
なんとか言わないで済ませたり。
伊集院
便利じゃないですか。
「愛がある・ない」は便利だから、
漠然としたものを全部持ってっちゃうのは、
すーごいわかります。
糸井
それはやっぱり、頬っぺたの渦巻きと
同じようなものなんで。
だから「1回それ使わないでいこうよ」って。


いろんな諍(いさか)いの物事のなかで
「平和が大事だ」とかも言うけど、
「平和」というのも、もう絶対価値だから、
「あえてその表現を1回使わないようにして
考えてみたらどうなるだろう」っていう。
伊集院
「ちょっと警戒したほうがいい言葉集」
「思考停止するのに便利な言葉集」って
ありますよね。
(つづきます)
2024-02-10-SAT