挿絵の 地図の 絵本の雑誌の ロゴの 写真の宣伝の 先輩の お家のパリの 東京の 旅人の   堀内さん。──デザインを旅したひと。──
写真の堀内さん。

▲『ロッコール』12号「秋山庄太郎作品集 ジプシイ・ローズ」

▲『ロッコール』31号「子どもたちの瞬間 常磐とよ子の作品から」

▲『ロッコール』29号「photo essay 海は、やめてしまった…」

▲『ロッコール』39号「The Night Comes 奈良原一高」

写真雑誌『ロッコール』での堀内さんの仕事は、
自由にトリミングをしたり、写真を切り抜いたり、
文字を重ねたり、という、
それまでの写真誌には見られなかった、
かなり大胆なヴィジュアル・デザインでした。

そして、そのユニークなレイアウトにひかれて、
若いカメラマンが『ロッコール』に集まってくる、
という現象が起きました。


▲いずれも「ウィークリー・ファッション」(『週刊平凡』)より

「ウィークリー・ファッション」(『週刊平凡』)や
「パンチ・メンズモード」(『平凡パンチ』)では、
ラッシュアワーの東京駅やスキー場、
当時開通したばかりの新幹線などを
撮影の場として選びます。

堀内さんのこうした誌面づくりは、
「ファッション写真にドキュメント手法を持ち込んだ」
といわれます。
半世紀も前の写真、そしてデザインですが、
いま見ても新鮮なものばかりです。


『アンアン』で、堀内さんは、
多くの若い写真家たちにたくさんのチャンスを与えます。



▲『an・an』創刊号巻頭を飾った「はじめまして、アンアンです」特集や
「ユリのヨーロッパ」などのカラーページはカメラマン立木三朗さんが担当。


▲おなじく『an・an』創刊号「elle et lui」は、加納典明さん。
女性モデルは鰐淵晴子さんです。

▲『an・an』3号「ティーシャツ イン イル・ド・フランス」は吉田大朋さんの担当。

▲『an・an』16号「坂東玉三郎」は篠山紀信さん。

▲紀信さんと玉三郎さんの組み合わせは、『an・an』49号でも。

▲『an・an』17号では篠山さんが沢田研二さんを撮影。

▲『an・an』26号のインド・ネパール特集。
このスタッフのぜいたくなこと!(でも当時みなさん「若者」だったんですよね。)

アド・センター時代から組んでいた
カメラマンの立木義浩さんに加え、
吉田大朋さん、十文字美信さん、
篠山紀信さん、与田弘志さん、
坂田栄一郎さん、立木三朗さん、
加納典明さん…
いまは「大御所」「巨匠」といわれる人たちが、
堀内さんのディレクションのもと、
新鮮なファッション写真を次々に発表しました。


『BRUTUS』では、堀内さんの個性や
好奇心が、さらにはっきりとあらわれます。
それは、写真に関してもそうでした。


▲『BRUTUS』108号「晴天の伊達男地球に立つ」。撮影は植田正治さん!

あるとき堀内さんは、写真家・植田正治さんを
ファッション写真に起用します。
堀内さんとは長く交友のあった人ですが、
このとき植田さんは72歳。
しかも、病が癒えたばかりで、
さらに奥さまを亡くされて
ふさぎこんでいた頃だったといいます。
堀内さんも同行した撮影場所は三宅島。
『BRUTUS』の撮影ロケに堀内さんが同行することは
それまでになかったので、当時の編集長である
石川次郎さんは、とても驚いたそうです。


できあがったページはごらんのとおりのかっこよさ。
黒い砂地での撮影アイデアは、
もともと植田さんのご長男が
ファッションデザイナー菊池武夫さんのヴィジュアルの
アートディレクションをなさっており、
このページのライターである森永博志さんとのかかわりから
うまれたものだそうです。

この撮影のとき、こんなエピソードがあります。

堀内さんはスタスタと先に行って、
ロケハンもして、という数日間の撮影。
そのあいだの、1泊か2泊か、宿にいるうちに、
つまり帰る前に、ラフ(レイアウト)を作ってしまった。
少なくとも10ページはある特集です。

植田さんは、写真の上がりに時間がかかる人でした。
少し待って植田さんの写真が届いたら、
堀内さんが絵を描いた、
そっくりそのままだったというのです。

堀内さんは、レンズの種類と方向を見たら、
何を撮っているか、わかってしまうのですね。
しかも、カメラマンの邪魔をすることなく。


▲『an・an』45号、アメリカ特集のなかのニューオーリンズのページ。
堀内さんが撮った写真を使うときはちいさく「HORIUCHI」とクレジットが。

これは、『an・an』の見開き。
ロケ中、カメラマンの不在時に、
堀内さんがさらりと撮ってしまった写真です。
このすばらしいソフトフォーカスは、じつは
「チョチョッと、つばをレンズにつけて滲ませて」
いるのだとか!(すごいなあ。)

同じ号には、堀内さんが写真とレポートを担当した
「オークランドのヒッピーしらみの市」という記事も。


▲「のみの市」のはずが「しらみ」(わざとかな?)、FLEAのはずが
「FREE」となっていたりしますが、そこはご愛嬌。
堀内さん、広角レンズを使って撮っていたようです。

ほかにも『an・an』ではルーマニア特集や、
ディズニーランド特集で、
堀内さんの写真はたくさん使われています。
そう、 旅をする堀内さんは、
いつもカメラを手にぶら下げて歩いていました。


▲堀内さんの愛機その1、ハッセルブラッド500C。
ブローニー(中判)フィルムを使う本格的なもの。

▲愛機その2、ミノルタのSR-T101。35ミリフィルムを使う一眼レフ。

多くは取材の記録、資料として撮る写真でしたが、
1本のフィルムのうちに何枚か、
堀内さんの個性や好みがわかるようなものもありました。


▲1978年、ソ連・モスクワ。

▲1980年、ソ連・レニングラード。

▲1981年、グルジア(ジョージア)・トビリシ。

堀内さん自身が、旅のあいだに撮った写真は、
堀内さんが敬愛したフランスの写真家、
ジャック=アンリ・ラルティーグや
ロベール・ドアノーを連想させます。

子どもたちの写真から感じられるのは、
堀内さんのやさしい視線。
絵本のいちページのようです。

来週は「パリの堀内さん」です。
おたのしみに!
編集するじぶん(武井)もたのしみです。





素敵な連載、楽しく拝見しています。

私が初めて、3歳ころの時に
兄の通っていた幼稚園のバザーに行ったときに
会場に着いたら母の手を放し、
つかつかと一人で歩きだし、
さっと手に取ったのが
堀内誠一さんの『あかずきん』。
驚いた母が「これがいいの?」と聞いたら
うん、とうなずいたそうです。

まだ字は読めないのに絵と色、
構図の迫力に虜になっていました。
(特に、赤ずきんちゃんをだますオオカミの
思案中の顔の向こうに、
何も分かっていないあかずきんちゃんが
こちらを見ている小さな顔のある
ページがお気に入りでした)

それからはどこに引っ越しても、
もう40年以上も一緒です。

字が読めるようになって、
『こどものとも』で出会った
『パンのかけらとちいさなあくま』、
そしてもう少し大きくなって出会った
『ポパイ』と『オリーブ』。
ふっと、どんな人が描いたのだろうか?
と 思いたち、それぞれを確認したら、
みんな同じ堀内さんの作品だったのには
驚き、うれしく思ったものを懐かしく思い出しました。

何でもやってしまう堀内さんを
10代の頃に知ってからは、
将来の方針を決めなさいと言われた時に、
堀内さんのように一つに決めないで
やりたいことをやれるようになれたらいいな・・・
とうらやましく思ったものです。

(Tさん)



伊勢丹の家電のディスプレイ
上段の左端にある大きな板チョコのようなもの。
これはパネルヒーターという暖房です。
デロンギが薄くなったようなものです。
1960年生まれの姉と
1967年生まれの私の部屋で使っていました。

たしか1969年に2階を建て増しして、
子供部屋ができました。
その時、触ってもやけどをしない、
倒れても火事にならないという理由で
パネルヒーターを父が選びました。
青山のユアーズという
アメリカのスーパーで買い求めたと思います。
1階が食品スーパーで、
2階が子供服や家電や家具売り場だったと思います。

あの頃の伊勢丹は、おしゃれでした。
何もかもが素敵でした。懐かしいです。

堀内誠一さんがお若く亡くなったことを知り、
ショックです。
ぐるんぱもゲルランゲも大好きでした。
今でも動物の絵が大好きです。

(安さん)


協力 堀内路子 堀内花子 堀内紅子
取材 ほぼ日刊イトイ新聞+武田景

2016-11-30-WED
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN