マンガ・鈴木みそ

鈴木みそさんのプロフィール」

第2回 グラフをつくるということ。

糸井 そもそも、ぼくが早野さんのやってることに
なぜ注目していたかというと、
「この人は、ただただ観察をしている」
というふうに感じて、それがとっても
信頼すべき姿として映ったんです。
ほかの方々が、さまざまな「考え」を
たくさん述べてらっしゃるときに、
早野さんはさまざまなデータを
自分の考えを大きく添えることなく発信していた。
これはぼくの素人考えですけど、
「とにかく事実を知らせなきゃね」
っていうことをやっているように思えたんです。
だから、いろんな立場の人を含めて、
震災後のかなり早い段階で、
この人は絶対に見ておかなきゃいけないなと思って
フォローさせていただいたんです。
早野 そうでしたか。
糸井 まず、そのころ、早野さんがどういう気持ちで
ああいう役割をこなしてらっしゃったか
ということをうかがいたいんですが。
早野 わかりました。
震災が起こる前、ぼくのツイッターの
フォロワーは3000人くらいでした。
ぼくは、ツイッターをはじめたのは
日本人のなかでも割と早いほうだったと思います。
もともとは、自分のやっている
「東京大学教授」という仕事が、
学生たちにまったく想像できないだろうと思って、
自分の日常を伝えるようなつもりではじめました。
糸井 ホットケーキやあんこが大好き、とか。
早野 そうです、そうです(笑)。
だから、うちの学生とかも、ぼくのツイッターを見ると、
「あ、なるほど、この人、最近いないけど、
 こういうことをやってるのか」というふうにわかる。
そういうことのためにやっていたんです。
糸井 それを、3000人くらいが見ていた。
早野 はい。
それで、2011年3月11日の震災のとき、
ぼくはまあ、東大という組織の管理職だったので、
とにかくみんなを避難させて、
そのあとで自分も外へ避難して、
いわゆる帰宅困難者になるんですね。
糸井 家まで歩いたんですか?
早野 しばらく歩きました。
そのうちにツイッターで地下鉄が動いたことを知って
まだ混んでない地下鉄にパッと乗って帰宅しました。
家に帰ったら、テレビが棚から落っこちて、
見事に壊れてました。
それでその日1日は、テレビを見ませんでした。
明けて12日になったら、テレビ局がインターネットで
報道番組をストリーミングしはじめて、
そこでようやくニュースを見るんですね。
それで、3月12日の午後、
おそらくNHKだったと思うんですが、
「原発の敷地内でセシウムが検出された」
っていうニュースをそこではじめて耳にするんです。
震災直後は情報がしばらく遮断されていたので
そのときはじめて「えっ?」と思って。
糸井 つまり、一般大衆のひとりとして、
そのニュースを知ったんですね、まずは。
早野 まったくそうです。
いまはもう、放射性セシウムとかいうと、
ぼくより詳しく知ってる人が
たくさんいらっしゃいますけど、
当時、セシウムが検出されるということの重みを
すぐにわかる人は、いまよりもずっと少なかった。
セシウムとストロンチウムは
ウランの代表的な核分裂片であって、
それが、原子炉の外で検出されるっていうことは
とってもまずいことだよな、と。
そういうことをツイートしたのが12日の午後で、
それがぼくの震災に関係する最初のツイートだった。
それは、なにか使命があったということではなく、
自分がたまたま物理の知識として
それを知っていたということです。
その後、普通に視聴者としてテレビを観ていると
東電の会見とか、当時はあった保安院の会見とか、
そういった映像が流れるんですけれど、
どうもよくわからないんですね。
それで、なんとしてでも、
何が起きているか知りたいと思いました。
糸井 逆にいうと、震災直後は、早野さんも、
何が起きているかわからなかった。
早野 わかりませんでした。
ほとんどの人がそうだったと思います。
ですから、あのころテレビで、
いきなりコメントを求められたりしていた
専門家の方々っていうのは
たいへん気の毒だったと思います。
なぜかというと、現場のデータも見られないまま、
自分で調べるチャンスもないままに
マイクを向けられていたので。
そういうことは、自分はしたくないと思いました。
それで、ぼくが3月13日の早朝からはじめたのは、
「グラフをつくる」ということでした。
糸井 13日の早朝、ですか。
早野 はい。
そのとき、東電がはじめて
「福島第一原発の正門前で
 放射線レベルがかなり高かった」と報告して、
データを本社にFAXしてきたんです。
そのFAXには測定した時間と
放射線量が書いてあったんですが、
たぶん、何ヵ所かに転送されて、
そのあとでスキャンされたものがPDFになって
ウェブに貼られたんですね。
糸井 なんか、文字がつぶれて読めないくらいでしたよね。
早野 もう、ぼやけていて、数字が読めないんです。
それを一生懸命、解読してグラフをつくったんです。
それをツイートして、ふと気がついたら、
そのグラフを15万人くらいが見ていたんです。
あれ? そんなにフォロワーがいたかな?
と思って、自分のツイッターをチェックしたら、
フォロワーが15万人に増えてたんです。
糸井 3000人から15万人に。
早野 ええ、だいたい2日間くらいで。
とにかく、そのころは、どんな人がなんと言おうと、
現場の状況を知ることができるデータっていうのは、
たとえ不十分なものであっても、
みんなが知りたがっていたんです。
福島第一の現場から来るデータ、それから、
あちこちにあるモニタリングポストのデータ。
当時は、福島県内のモニタリングポストが動いていて、
茨城なんかにもモニタリングポストがあった。
ぼくはそういうデータを一生懸命見て、
どういう状況かということをつかんでいったんです。
糸井 そのデータの入手はどういう方法で?
早野 それは、みなさんと同じです。
特別なルートはひとつも持っていないです。
糸井 あちこちで発表されているものっていうことですね。
早野 はい、発表されているものだけを見て。
最初はそれをグラフにするっていうことをやりました。
数字を見るとグラフにするっていうのは、
これ、ぼく、物理の研究者なんで、
もう、染みこんじゃってるんです。
糸井 数字を見るとグラフにしちゃう(笑)?
早野 ええ、そうなんです(笑)。
ぼくは物理の研究者のなかでも、
紙と鉛筆で考える理論物理ではなくて、
作業着を着て、ときにはヘルメットをかぶって、
現場で作業するタイプの研究者なので、
データを見てグラフにしたり
ノートに書きとめたりっていうことが
普段から、体に染みこんでるわけです。
データを見ると、グラフにせざるを得ない、というか。
糸井 「グラフにせざるを得ない」(笑)。
そういう習性を持った虫みたいに。
早野 そういうものなんですよ。
それで、とにかく、ひたすらグラフにしていたら、
そしたらですね、ぼくと同じような
習性の人って大勢いるのね、世の中に。
一同 (笑)
早野 ぼくのやってることを見て、
ぼくと同じ習性を持った大勢の人たちが、
「あっ、そうか、いま自分ができることは
 こういうことなんだ」と気がついた。
で、ぼやけた数字を解読してくれる人とか、
それを打ち込んでグラフにしてくれる人とか、
あちこちでつくられたグラフを
まとめるウェブサイトをつくってくれる人とか、
どんどん出てきたんですよ。
糸井 それが、震災後3日目ぐらいだったでしょうか。
早野 そうですね。
糸井 覚えてます。
早野 それってね、ほとんどぼくと一面識もない人。
なかには同業者で、ああ、あの人やってくれてるな、
っていう人もいたんですけど、
かなりの方は、一面識もない方。
そういう人が、自発的に行動して、
非常に短い時間でグラフをつくってくれたり、
あるいは地図の上にデータを載せてみたり、
こういうものをつくったんですけど
ちょっと見てくださいと言ってきたり、
もう、ひとつの文化のように広がっていったんです。
糸井 そういう虫が集まって巣をつくるように。
早野 はい。それは、ぼくとしても非常にうれしかった。
そうやってみんなで、ひとりでは追い切れない
いろんなデータを集めて来て、
それをみんなで共有して見渡すっていうことが、
3月のわりと早い時期にできたんです。
糸井 そのときに、早野さんの心の動きっていうのを、
きちんとうかがっておきたいんですけど、
個人としては、どういう気持ちなんですかね。
自分のボディを抱えてる人間としては、
たとえば、不安とか、ここにいるべきなのかとか、
そのころって、みんなが揺れてた時期ですよね。
早野さんも、データを冷静に眺めている自分のほかに、
家族と過ごす、個人の自分がいたわけで。
早野 ああ、それはいますよね。
糸井 それは、どんな感じでしたか? 
ぼく個人のことでいうと、強烈に覚えているのは、
どこかのタイミングでテレビから
「換気扇を止めてください」って
聞こえてきたときなんです。
つまり、息をするということ自体が
不自然なことになってしまう状況というのは、
そうとうに覚悟が必要だなって思った。
そういうことは、早野さんにはなかったですか?
早野 もちろん、グラフをつくりながら、
これがどのくらいひどいことになるんだろう、
ということは考えざるを得ませんでした。
ぼくはそういうことの専門家ではなかったので、
チェルノブイリやスリーマイルアイランドの
レポートを読んでなかったので
そのときにぜんぶ読んで、
今回の事故が過去の事故に比べて
どのぐらいひどいんだろうということも考えました。
そういうなかで、
「これはまずい」といちばん思ったのは、
4号機の使用済み燃料プールに
水がないかもしれないと報じられたときです。
1、2、3号機というのは、
よくないこともたくさんありましたけど、
まがりなりにも外側に格納容器というものがあった。
チェルノブイリにはそんなものはなくて、
それが全部吹き飛んでしまったという状態でしたから、
格納容器がある限り、チェルノブイリほど
ひどいことにはならないと心の中では確信してました。
けれども、4号機の使用済み燃料プールとなると
話はぜんぜん別です。
糸井 つまり、むきだしですものね。
早野 そういうことです。
あれがもし、水が干上がって
中の燃料が溶け出すようなことが仮にあると、
覆っているものが何もない状況ですから、
中の物質が全部外に出てしまう。
そのときだけは、これはもしかしたら、
非常にまずいことが起きるかもしれないと思いました。
結果的には、水があることがわかって
胸をなでおろしましたけれども。
2013-06-18-TUE