2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.80

「新しい自分に会えるから」

 かなり溜め込んでいた「積ん読」の山を、この10連休の間に少し減らすことができました。心の負債が減って、満足の貯金が増えた感じです。

 そんななかの1冊が、盛口満さんの『めんそーれ! 化学――おばあと学んだ理科授業』(岩波ジュニア新書)でした。著者の紹介は、奥付ページのプロフィールをそのまま引用させてもらいます。

めんそーれ

<1962年生まれ。小学校時に突然、貝殻拾いにはまり、そこから「生き物屋」という病にとりつかれる。あだ名はゲッチョ。千葉大学理学部生物学科に進学するも、研究者にはむいていないことに気づき、教員を目指す。卒業後、私立自由の森学園・中高等学校の教諭に着任。2000年に同校を退職し、沖縄に移住。NPO珊瑚舎スコーレの活動に関わる(2005~11年に夜間中学で理科を担当)。2007年より、沖縄大学人文学部こども文化学科の教員となり、理科教育を担当(現在、教授)。生き物のイラストを描き、自然に関する普及書も多数執筆している。>

 とてもたのしい本でした。その話をする前に、他の著書を少し紹介したいと思います。

・『骨の学校』という3冊シリーズ(木魂社)

・『ネコジャラシのポップコーン』(同)

・『僕らが死体を拾うわけ』(ちくま文庫)

・『ドングリの謎』(同)

・『シダの扉』(八坂書房)

・『おしゃべりな貝』(同)

・『身近な自然の観察図鑑』(ちくま新書)

・『フライドチキンの恐竜学』(サイエンス・アイ新書)

・『ゲッチョ先生のトンデモ昆虫記』(ポプラ社)

・『自然を楽しむ 見る・描く・伝える』(東京大学出版会)

・『生き物の描き方 自然観察の技法』(同)

ドングリポップコーン

 いったいどんな内容の本なのか? 読む気を大いにそそられます。そこで、ブログ「ゲッチョのコラム」を開いてみました。

 これがパワフルで、なんともゴキゲン! つるつる惹き込まれてしまいます。この先生の観察力、耳のたしかさ、それを組み立てる編集力、文章力が抜群です。断片的な書きものであればこそ、よけいにそれを感じます。

 こんな異才が隠れていたなんて、世間は広い! 理系の読みものにこちらが不案内だったせいかもしれませんが、こんな逸材が視界にまったく入っていなかったのです。

 さて、肝心の本の紹介です。先ほど挙げた著書のリストを見ても、盛口さんは「生き物屋」です。専門は生物、植物で、ナチュラリスト。その人が、「化学」を教えた時の話です。なんだか少しフシギです。

 沖縄県那覇市のフリースクール「珊瑚舎スコーレ」が併設する私立の夜間中学が舞台です。著者が受け持ったのは中学3年生の理科の授業。生徒は中国大陸出身の女性、台湾出身の女性がそれぞれ1人いるほかは、ほとんどが地元沖縄出身の女性です、それも60代以上の年配女性――。沖縄でいう「おばあ」たちのクラスです。

 太平洋戦争末期、沖縄が激烈な地上戦に巻き込まれ、多くの犠牲者を出したことは、よく知られています。戦争と戦後の混乱で、満足に初等教育を受けられなかった人が少なくありません。その多くが女性です。

 女子は幼いうちから家事手伝いや労働にかりだされる傾向が強く、「小学校は入学どころか校門をくぐったこともありません」と話す生徒がいます。一人ひとりに、さまざまな苦難の歴史があります。

 「父は病死と言っていますが、戦争中に爆風で飛ばされ、1週間意識不明になり、意識は戻ったものの、戦後すぐに亡くなりました。私は7歳でした……」というように――。

 2001年に開校したNPO法人「珊瑚舎スコーレ」は、昼間は小学生~高校生が通うフリースクールですが、そこが夜間中学を開いています。「沖縄戦終結の前後に学齢期を迎え、混乱と貧困のため学校に通うことができなかった義務教育未修了者」で、「現在も向学心をもち続け、学ぶ場を求めている」人たちのための学校です。

<夜間中学に通う生徒たちは、年々、高齢となっている。
 それでもなお、学校に通おうと思うのはなぜだろう。

 「年をとると、忘れっぽくなってしまいます。教わったこともすぐに忘れてしまいます。でも、学ぶことは楽しいです。それは、新しい自分に出会えるからです」

 夜間中学の生徒たちは、異口同音(いくどうおん)に、学校に通う理由をこう、語る。

 「いい大学に入るために」でも「試験にでるから」でも「将来、いい会社に入るために」でもない学びが、ここにある。>

 とはいえ、「これまで一度も理科を学んだことがない」という生徒に向かって、「生き物屋」のセンセイが、専門外の、どんな化学の授業をするのでしょう? 最初の日から、意表をつきます。教室に鍋とコンロを持ち込むと、黒板に「料理 肉じゃが」「材料 ジャガイモ、肉」と書くのです。

 化学式だ、化学変化だと、いきなり言ってもチンプンカンプンになるでしょう。でも料理なら、それこそ何十年も手がけてきた、おばあたちの得意ジャンルです。

目次ウラ

<化学変化の特徴とは、「ものが、反応する前からすっかり変わって元にもどらないこと」だ。肉じゃがも、料理前の肉やじゃがいもとは「すっかり変わって元にもどらない」。つまり、化学変化をおこしている。肉じゃがに限らず、料理には加熱がつきものであるけれど、これまた化学変化の特徴には「熱の出入りがともなう」こともあげられる。

 「みなさんは、それと気づかないだけで、これまでも、化学につながることをずっとしてきたんですよ」>

 こうして可逆の変化(物理変化)と不可逆の変化(化学変化)の違いを説明します。

 この教室がおもしろいのは、先生が水を向けると、すぐに生徒たちからさまざまな反応が返ってくることです。本に書かれているのは、そのごくごく一部だろうと思います。

 生徒たちはみんな学校になれていないので、手を挙げて順番に発言するなんて考えはありません。口々に思ったことを勝手に喋りだしてしまうから、交通整理も大変です。収拾不能になることも、しばしばだったに違いありません。でも、交通整理が大変になるくらい、発言が飛び出すというのが、凄いこと。いまの小中高校生、大学生相手の授業のなかで、そんなことがあるでしょうか?

 生徒のパワーを汲みとりながら、学びの空間を一緒におもしろく盛り上げていくところが、この授業の魅力です。そのたのしさがいたるところに感じられます。

 金属の3つの性質は? という話のなかで、①金属はみがくと光る、②金属は電気を通す、③金属はたたくと延びる、という説明をします。すると、さっそく生徒から、③について体験談が語られます。

 捕虜収容所に入っていた時、冬場に毛布が足りなくなります。マラリアがちょうど流行っていました。そこで、食料の入っていたカマス袋を縫い合わせ、布団代わりにすることにします。セメント袋をとじていた糸を用い、針はコンビーフの缶を開けるための(あのクルクル巻いていく)小さな金具を、たたいてのばして、先をといで、縫い針にしたというのです。

コンビーフ

 アルコールの話をすれば、イモを集めて泡盛の密造酒をつくっていた頃の秘話が飛び出します。ロウソクの科学を教えていると、かつてブタの脂を照明用に使っていたという体験談が語られます。

密造酒

 沖縄には、伝統的に揚げ物料理が多いのですが(昔は冷蔵庫がなかったので、揚げ物は食物の保存にも役立った)、戦後すぐは、食用油が足りなかったため、アメリカ軍の基地から機械用のオイル(モービル)を盗み出して、それで揚げ物をつくったなど、耳を疑うような実体験が次から次へと出てきます。

 生徒たちの尽きることない喧々諤々(けんけんがくがく)、素朴な質問。それが、ひとたび理科の知識で裏付けられると、「ああ! そういうことか」となります。その時の、喜びに満ちた生徒たちのナットク顔。そんな光景が目に浮かびます。

 「理科の学びは『くらしの知恵』や『くらしの知識』と結びつくもの」ではなかったか。「理科って本当は、くらしの体験に結びついて、その理由を明らかにしたり、法則性と結びつけたりする」勉強ではなかったのか。夜間中学での知のあり方が、いまの学校教育へのさりげない、しかし根本的な問題提起につながります。

モービル

<化学式や計算など、それを理解し、扱うことで、もっと深くわかることがたしかにある。
 でもその前に、僕はまず、さまざまなものとかかわって生きてきたことに立ち返りたい。ふだん口にしている「化学」や「科学」といった言葉から押し出されてしまっていることがないか、ふり返って見る必要があるように僕は思う。>

 おばあたちを相手にして、毎回手探りの授業を進めるなかで、「理科とはどんなことを学ぶ教科なのか」、先生自身が絶えず教えられた気がするというのです。学ぶことの本質を――。

 いまの子どもたちは、学校には通っていても、日々のくらしでさまざまなことを体験する機会は限られています。

<ものを燃やすということも、日常から遠い存在になりつつある。ガスコンロもIHの調理器具になり、石油ストーブも姿を消した。仏壇にロウソクをともすというのも、多くの家ではやっていないのかもしれない。/そんなふうに、気がつかないうちに、日常生活のなかでさまざまな現象を体験する機会が減ってしまっている。>

 そこで先生の先の発言が飛び出します。

 「理科って本当は、くらしの体験に結びついて、その理由を明らかにしたり、法則性と結びつけたりするものじゃないかな。くらしの体験に結びつく話をすると、夜間中学の生徒は“ああ”っていうんだ。
 それで、今、僕がへたな授業を普通の小中高校ですると、生徒は“ああ”じゃなくて、“へぇー”って言うよ。これは、話が彼らのなかに結びつくものがなかったということだと思う」

 大学で小学校の教員をめざす学生たちに、先生はこう語ります。そして、続けます。

 「でもね、今の小中高校生にも“ああ”って言ってもらえる授業って、あると思う。みんなも学校の先生になったら、“へぇー”じゃなくて“ああ”といわれる授業ができたらいいな」

ゲッチョ盛口満さん

 それにしても、高齢になってなお、学校に通おうと思うのはなぜでしょう? なんのために学びたいと思うのでしょう? 70歳を超える夜間中学生が、「もっと学びたい」と口にするのはなぜでしょう?

 「学ぶことで、新しい自分に会えるんです」

 夜間中学の生徒たちは、その理由をそろってこう語ります。その言葉に「何度でも立ち返りたい」――こう誓って、先生は本書を締めくくります。

2019年5月9日

ほぼ日の学校長

*イラスト・著者(画像提供・岩波書店)



ほぼ日の学校新講座「ダーウィンの贈りもの I 」のプレイベント「文学者の心で科学する。」にたくさんのご応募をありがとうございました。イベント内容は、追ってコンテンツとしてもお読みいただく予定ですので、そちらもおたのしみに!