2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.60

「同じアホなら踊らにゃそんそん」

 「万葉集講座」初日(11月28日)を聞いてくださった九州からのゲストの方が、いみじくもこうおっしゃいました。「上野(誠)先生の語り口には魅了されました。博多の角打ち(かくうち・店の一角で酒を立ち飲みさせる酒屋)の物知りのおっさんみたいで、たまりませんなぁ!」。

上野誠先生

 なるほど、と相槌を打ちました。『万葉集』の研究者ながら、上野さんは奈良県生まれではなく、福岡県生まれの博多育ち。「おれ、九州男児ばい!」のお方です。この感想を伝えたら、きっと大喜びすると思うのです。

 多くの受講生も帰り際に言いました。『万葉集』の講座に出て、こんなに笑い転げるとは予想もしませんでした、語り芸が凄いですよね、と。万葉の心を受け継ぐバトンリレーの一員をみずから任じる上野さんは、人が歓(よろこ)んでくれること、『万葉集』を好きになってくれることに無上の喜びを感じる語り部です。

 前回の学校長だよりでも書いたように、上野さんの講義はよく考え抜かれた「万葉おもしろ第一主義」。万葉びとの肉声を届けるために、『万葉集』のおもしろさを伝えるために、変化球もおりまぜながら、渾身の投球を見せてくれます。

 今回のハイライトは、シェイクスピア研究者の河合祥一郎さんを招いた後半戦――『万葉集』とシェイクスピア作品の“掛け合い”――なのですが、講義の前半では、『万葉集』に対して身構えている私たちをまずリラックスさせてくれました。

 ‥‥高校時代の古文の授業で覚えましたね、過去の助動詞「き」の活用は、「せまるきししかまる」と。その後、これが役に立ちました? あれで、たいてい古文がイヤになるんです。私もまったくそうでした。

 ‥‥『万葉集』は8世紀半ばに編集された約4500首の和歌集ですが、当時の人たちの思考や感性は、知らず知らずのうちに私たちの体のなかに入っています。いつの間にか、血となり肉となっているんです。たとえば、

 この土手に 登るべからず 警視庁

 狭い日本 そんなに急いで どこへ行く

 5音句、7音句の刻むリズムは、すでに私たちの体質の一部になっています。だから皆さん、きょうは筆記用具を置いて、ちょっと耳を貸してください、と上野さんは呼びかけます。

 昔の人は、文字を媒介としないで、口から耳へ、口から耳へ、という形で歌を伝承していきました。いまから“口立て(くちだて)”で、歌をひとつ読み上げます。それを耳で聞いて、声に出して、歌を体になじませて、歌の心を感じてほしい、と。

 君が行く  海辺の宿に 霧立たば 我(あ)が立ち嘆く 息(いき)と知りませ

 何度か聞きながら、口ずさんでいるうちに、たしかにイメージが立ち上がってきます。意味がおぼろげにつかめてきます。

 アナタが行く
 海辺の宿で、
 もしも霧が立ったなら‥‥

 ワタシが都で立ち嘆いている
 息だと思って――

 ワタシのことを思い出してください。

(上野誠『はじめて楽しむ万葉集』、角川ソフィア文庫

hajimete

 作者未詳、『万葉集』巻15の3580という歌です。天平8年(736年)に日本から新羅の国に遣わされた遣新羅使人(けんしらぎしじん)の贈答歌の一首で、旅立つ夫を送り出す妻が別れを悲しんで歌ったものです。

 実は、これに応える夫の歌が、巻15の3581に並んでいます。 

 秋さらば 相見(あひみ)むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ

 秋になったら、必ず会えるのだ、なのに、どうして霧となって立ちこめるほどに嘆かれるのか(伊藤博『萬葉集釋注八』、集英社文庫

 伊藤氏によれば、

<夫の歌の上二句「秋さらば相見むものを」は、表現に忠実に即するならば、秋の到来する七月には逢えるのだからの意になる。(略)遣新羅使の往復は六、七か月かかるのが習いであった。夏四月下旬に奈良を立って秋七月に帰京することは、事実としてはあり得ない。これは、さびしく取り残される妻に対する夫のいたわり、および夫自身への鼓舞から発せられた誇張表現であろう。>

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 また、夫が妻に敬語を用いている点(「嘆きしまさむ」の「ます」)にも、着目しています。

<夫から妻に対して敬語を用いることは、挽歌などを除いてはごく稀。ここは、上二句の「秋さらば相見むものを」に応じる表現で、妻に対する夫のいたわりの心情が現われ出たものである。夫は、子どもをあやすような気持で詠んでいるのである。>

 もう一つ、私がおもしろいと思ったのは、霧が嘆きの息であるという発想です。以前、中西進さんの『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)を読んだときに、ハッとする記述に出会いました。

hiragana

<私たちは日頃、「命を大切にしなければならない」「生きていくことこそ大切だ」などと何気なく口にします。この「いのち」と「いきる」、どちらも「い」という音で始まっているのは、決して偶然ではありません。「い」で始まることばには、特別な意味があるのです。

 「いきる」の古語は「いく」ですが、このなかには一つのことばが隠れています。「息をする」の「いき」です。(略)人間にとって、息をすることは生命活動の基本です。だからこそ、生存することをいう「いく」と同じ「いき」ということばで表現したのです。>

 「生きている」とは「息をする」こと。妻の歌では、海辺に立ちこめる霧は嘆きの息であり、都にとどまる妻の生命そのものなのです。旅先で夫が見るだろう霧を、私の息だと思ってください、と歌にこめた切ない情感がさらに凝縮されて伝わります。

 上野さんはこの歌が作られた時代背景を説明してくれました。この年の遣新羅使はたいへん困難な時期にあたったというのです。新羅と日本との外交関係が悪化し、新羅の都に入ることを許されないなど、たいへんな軋轢(あつれき)が生じたとか。また、北九州全域に天然痘が流行し、途中で命を落とす人も多かったとか。そういう不安で困難に満ちた旅に出る夫を、都にとどまる妻が案じて歌っているのです。

 「そういうことまで分かってくると、ますますこの歌が、体に染みわたってくるじゃないですか。どこかで、こんな手紙をもらってみたい! そう、わがこととして感じることができたなら、古典が身についたと思うんです」――上野さんは、こう締め括りました。

 さて、シェイクスピアとの“掛け合い”は、「恋」「死」「人生」という3つのテーマでシェイクスピアの名台詞を河合さんに挙げてもらい、それに対して上野さんが『万葉集』の歌を寄せ、それにまたシェイクスピアのことばを返してゆく、という流れです。これを講義のお膳立てとして準備しました。

上野誠先生・河合祥一郎先生

 シェイクスピアから12のフレーズ、『万葉集』から6首の歌が選ばれたのですが、楽屋話を披露すると、最初に上野さんから3つのお題が挙がったのに対し、河合さんからはその日のうちに答えが返され、それを上野さんに届けると、瞬時に歌が送られてきて、それを河合さんに伝えると、すぐまたリターンが打ち返されるという“超高速ラリー”が展開しました。プロならではの“掛け合い”でした。

 すべてを紹介するわけにはいきませんが、たとえば「恋」について、『万葉集』巻11の2375が取り上げられます。

 我(あ)が後に 生まれむ人は 我がごとく 恋する道に あひこすなゆめ

 皆の者よく聞け!

 我より後に生まれし人は‥‥
 我がごとくに、恋い狂う道に
 迷うでないぞ。

 けっして、けっして。

 (恋の道は、迷いの道)

 もし柿本人麻呂が現われて、「この歌では、恋の道は迷いの道と説かれておりますが、シェイクスピアさんはどうお考えですか?」と訊いたなら‥‥。上野さんが河合さんに問いかけます。「シェイクスピアなら、みんなで狂おう」と答えるのではないか。河合さんが応じます。

 「賢く正しく生きようとしても、人間は所詮バカだから。一番バカなことをするのが、恋に落ちたとき。あなたのために死んでもいいと思うほど、バカなことはないでしょう。それがもっとも人間らしい過ちなのです。だから恋してよかったとなるわけです」と。

 「死」についてのパートで、大伴旅人(おおとものたびと)が詠んだ「酒を讃むる歌」13首のうちの1首(巻3の349)が引かれます。

 生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間(ま)は 楽しくをあらな

 生ける者は 遂には死ぬるもの。

 遂には 死ぬべきものであれば‥‥

 この世にある間は、
 楽しく生きて行こうじゃないか――。

 同じアホなら踊らにゃそんそん。

 同じアホなら踊らにゃそんそん。

 シェイクスピアの芝居には「メメント・モリ(死を思え)」の思想が通奏低音として響いています、と河合さん。『ヘンリー五世』第4幕第5場のセリフを紹介します。

 人生は短くてよい。でなければ恥が長すぎることになる。

 Let life be short ; else shame will be too long.

henry5 彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾、『ヘンリー五世』が来年2月に上演されます。(*)

 すると上野さんが、「命長ければ恥多し」と、ここにいきなり兼好法師が乱入してきてもおもしろいですね、と(『徒然草』第7段)。

turezure

 とまれ、3つのテーマをめぐっては、万葉秀歌とシェイクスピアに大きな隔たりがないばかりか、あい通じる部分の多いことが明らかになりました。おそらく表現する人たちの体内に蓄積されていることば――ある種の知性の基層のようなものは、洋の東西、時代の差を超えて共通する何かがあるのではないか。『万葉集』であれば古代中国の思想や文学の影響があり、シェイクスピアであればギリシャ、ローマ以来の古典の伝承が体のなかに取り込まれ、後世の者たちの口からことばとなって出てきたのではないか――。

 上野さんの2回目の講義は、昨晩(12月5日)でした。これについては、次回の報告といたします。

2018年12月6日

ほぼ日の学校長

(*)彩の国シェイクスピア・シリーズ第34弾、『ヘンリー五世』が来年2月に上演されます。
ヘンリー五世を演じるのは松坂桃李さん、演出は吉田鋼太郎さんという豪華なキャスト。
ほぼ日の学校シェイクスピア講座でもすばらしい演技を見せてくれた河内大和さんも出演します。
詳しくは、こちらをご覧ください。