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弟夫婦のところに泊まるという母と東口で別れ、
地下鉄を乗り継いでアパートへ帰る。
郵便受けのなかにはチラシが三枚、
クレジットカードの支払い明細、
そして一通、手紙が届いてる。
裏返すと差出人はこのアパートの大家さん。
風呂上がりにはさみで封を切り、便せん二枚に目を通す。
そしてもう一度、はじめから読む。
落語の前に母と軽い夕食を済ませていたので、
缶ビール一本、さっきコンビニで買った
ちくわを持って押し入れにもぐる。
小こむらがえりがむくむく身をもたげるのを感じながら、
ひと口ビールを啜り、そうしてふしあなを覗きこむと、
向こうの様子はゆうべまでと様変わりしている。
付け替えたばかりの明るさの蛍光灯、
ちゃぶ台の上には急須と湯飲み、薄い座布団が一枚、
茶箪笥の上にはさまざま箱や紙包みが積み重ねられ、
甘い物をあまり食べない私にも見覚えのある
洋菓子店のロゴも見える。
ちくわをかじって缶ビールをひと口。
湯飲みの上でゆらりと湯気がうねる。
寄席に通っていると、
同じ噺がまったく違ってきこえることがある。
下手な二つ目なんかがただ台詞を羅列し、
話をなぞっているだけなのが、
正真正銘の落語家が演じると、
ほんとうに建物や人が、
その場にありありと浮かぶのが全身で感じられたりする。
ゆうべまでの穴の向こうと、
こうして覗いている景色とは、
私の目にはいま、そんな感じで違って見えている。
この壁の向こうに、まちがいなくあの場所がある、
実在していると、私はいまふしあなを通じ、
当たり前のように受け入れることができる。
駐車場の上、と理屈では無論わかっているけれども、
人や場所が「いる」、「ある」というのは
ひょっとして、外から見て
そうというだけに限ってないんじゃないだろうか。 |