世界をつくってくれたもの。ヤマザキマリさんの巻 世界をつくってくれたもの。ヤマザキマリさんの巻
同じ時代に生きているのがうれしくなるような人に
出会うことがあります。
そんな人たちの世界のおおもとは、
いったいどんなものでできているのでしょうか。
子ども時代から現在に至る足取りをうかがう
ちいさな連載です。
最初にご登場いただくのは、ずっと憧れていた
漫画家のヤマザキマリさんです。
インタビューはほぼ日の菅野がつとめます。
ヤマザキマリさんのプロフィール
第6回
まだある。まだ向こうはある。
まだ向こうはある。
──
ヤマザキさんは
17歳でフィレンツェに留学するもっと前に、
14歳で、おひとりで
ヨーロッパに渡っていらっしゃいますよね。
ヤマザキ
そうです。
14歳のときも大カルチャーショックを受けて
帰ってきました。



そこからはもう、世界が違って見えました。



日本の高校に、自分なりになじんではいたけど、
私はもうみんなと
日本のアイドルやテレビ番組なんかの話は
できませんでした。
まぁ、最初から無理に合わせていたところは
あったんですが、
その無理ができなくなってしまった。



もともと人間というのは
別の方向に顔を向けているのに、
なぜ不必要なときにも
足並みをそろえなきゃいけないんだろうか? 
そういう葛藤が、かなりありました。
──
お母さんが心配されていた
プレッシャーや葛藤が、ここで。
ヤマザキ
当時、アテネフランセに通いつつ、
御茶ノ水の名曲喫茶「ウィーン」で
アルバイトをしてました。
俳優の卵や美術を志す人も一緒に働いていました。



そのちぐはぐな人たちの集まる環境が、
高校よりよっぽど自分に合ってたし、
おもしろかった。
外国へ行く予定でいる私を
みんな励ましてくれました。
お客さんのなかに藝大の人もいて、
「自分は行けなかったけど憧れてたなぁ、
イタリア留学」
なんて言われました。
イタリア行きは正直、
14歳の旅のときに出会った
イタリア人のおじいさんと母との間で
水面下で取り決められていたことですし、
私は全くイタリアには興味がなかったのだけど、
「ああ、そうか。それだったらじゃあ行こうかな」
と、ふつうに思えました。



でも、その後17歳で
成りゆきにまかせてイタリアに
行ったはいいものの‥‥。
──
その先は「暗黒時代」ですね。
留学中、途中で振り返るようなことは
なかったですか?
ヤマザキ
ありませんでした。
とにかく前に進んでいくしかないし、
振り返っている場合じゃなかった。
──
「日本に帰ろうかな」なんてことも思いつかず、
でしょうか。
ヤマザキ
思いつかなかったし、
帰国するお金もなかったですから(笑)。
なのでイタリアに渡って2年ほどは
日本には帰りませんでした。
──
2年目に帰ったとき、
どんなことを思いましたか?
ヤマザキ
1987年ぐらいでしたから、
日本はバブルでなんだかみな浮かれてて、
同級生がわけのわからない、前髪の盛りあがった
波打つ同じ髪型になってました(笑)。
お金がいっぱいあって、へんな現象が起きてたけど、
何より私、驚くべきことに、
日本語がぜんぜん出てこなかったんですよ。
写真
──
おお! 
ヤマザキ
日本語をしゃべってるつもりなのに
どうしても無意識にイタリア語が出てしまう。
「ちょっとイタリアにいたからって
それはないでしょ」
とか、いわれるけど
そういうのじゃぜんぜんないんです。
わざとじゃない。
あれは一種の精神疾患だったんじゃないかな。
なんせフィレンツェ時代は
めったに日本の人には会わないし、
学校でも仕事でもイタリア語しか使わない。
寝ても覚めてもイタリア語オンリーです。
「困った。イタリア語しか出てこない!」
という、たぶん失語のような状態でした。
「いずれ昔みたいに日本語を
すらすらしゃべれる日が来るんだろうか」
と本気で不安になりました。
でも、日本語の本はずっと読んでいたから、
読み書きはできたんです。
──
それだけ一所懸命、イタリアで
ご自身の回路を駆使なさっていたのでしょう。
‥‥いま、29歳までの話をうかがってきましたが、
そこまでがすべて、転換期だったような日々ですね。
ヤマザキ
毎日が転換期です。
毎日何かの転換がありました。
──
東京から北海道へ、そこから単身ヨーロッパ、
東京、そしてまたイタリア‥‥。
ヤマザキ
その前に香港がちょっと入ります。
──
香港ですか。
ヤマザキ
9歳の頃、母が突然
香港のオーケストラに移籍するといって、
急に私と妹を連れて3人で香港に渡りました。
まだイギリス領だったときの香港です。



地元のインターナショナルスクールを
見に行かされて、
「あんたはここに通うかもしれない」
と言われました。
でも結局、通わずに帰ってきたんですけれどもね。



ハッピーバレーの上の住宅を借りて
住んでいましたが、
私はひとりでどんどこどんどこ坂を降りて
散歩に行くのが好きでした。
住宅地よりも、だんぜん
「ふだんの香港」のほうが歩いていておもしろい。
当時はごちゃごちゃしたデパートがあって、
そういうところにひとりで
買い物に行くのも好きだった。
言葉がなかなか通じないのに、
通じ合わせようとがんばるのが
自分的におもしろかった。
──
9歳って、かなり小さいですよね。
ヤマザキ
なんにもわかっちゃいなかったです。
街に貧しい子どもたちがいて、
私に向かって手を出してきたことがあって、
握手かと思ってしまった。そのとき、
「ああ、これは物を乞うために
伸ばされた手だったんだ」
ということを知りました。



当時の香港は通りで人が倒れてたりしたし、
日本でのほほんとしてたらわからなかったことを
ずいぶん教わりました。
その後、日本に戻ってきて、
なんだかものたりない気がしている自分がいました。
──
もう、知ったから。
ヤマザキ
そう。ふだん自分が生きている
日本の狭い空間以外の場所を。
やっぱりそこでも、小さいながらに
自分の何かが変わっちゃったんですね。



それからは母が年がら年中、
オーケストラであっちこっち行くたびに
私たち姉妹もできるかぎり
連れていってくれるようになりました。
「とにかく見せられるものを見せよう」
という気持ちがあったんでしょうね。
「世界はここだけじゃないよ」
と教えることに、
とても力を入れる人でした。



それはきっと本人自身も、ずっと、
そう思いたかったことなんだろうと思います。
母は、小さく囲われた中で育ったから。



「まだある。まだ向こうはある。
まだ向こうはある」
ということを思いつづけて、
自分で開拓していった人でした。
(明日につづきます)
2018-09-01-SAT
世界をつくってくれたもの。祖父江慎さんの巻