NATSUYASUMI
夏休みが
フィッシュマンズを
考えている。
「夏休み」というのは、ふたりの音楽ライターの名前です。
コンビというと漫才みたいだし、バンドではないし、
ほんとは会社の名前なんだろうけれど、
三田 挌さんと水越真紀さんのふたりに、
会社って言葉は似合わない。

彼らは、とにかく「好きになるちから」がある。
いまは、「フィッシュマンズ」というバンドを
好きになっている最中で、ぼくも、この人たちのおかげで
このバンドを聴くようになった。

いい。
これは間違いなく言えるのだが、
「みんなの音楽」かというと、そうだという自信はない。
そんなフィッシュマンズのことを、
ずっと、しつこく考えていく
ディープなページになるでしょう。

「2年8カ月」

初めて聞いた言葉はなんだったかな。
確か、「よく知ってますよね」だったな。
彼の言葉はそんな風に始まり、
僕は「どうして、りぼんと契約したんですか?」と
聞き 返したんだと思う。
それは本当に知りたかったことかもしれないし、
いつまでも黙っているのはヘンだから
尋ねてみたようなことでもあった。
佐藤伸治はその経緯を話してくれ、最後に
「奥田さんはそれほどでもないみたいなんですよ、
僕たちのことは」と付け加えた。
なんの脈絡もなかった。
僕は奥田さんとは一面識もなかったし、
忌野清志郎と長く仕事をしてきたせいで
“りぼんの社長”には悪いイメージしか
持っていなかった。
彼が初対面の僕に訴えたことはそんなことだった。
しばらくの間、そのひと言は
僕にとって不思議なひと言であり続けた。

その日の朝、僕は「空中キャンプ」を聴きながら、
大丈夫だ、自分にもちゃんとやれるという自信を
少しずつ回復しつつあった。
初めてフィッシュマンズのメンバーに会う日。
前の晩に僕は「空中キャンプ」を聴きながら、
何を質問していいのかわからなくなってしまい、
目の前が真っ暗になってそのまま寝てしまったのだ。
逃げることしか考えていなかった。
僕は「空中キャンプ」から逃げたかった。
その、同じアルバムが次の朝には僕に力をくれたのだ。
“この世で最も醜いと思うことは何?”という質問が
ふと頭に浮かんできた。

ポリドールの場所がわからなくて、
僕は遅刻してしまった。焦ったよなあ、そういえば。
第一印象をよくしなきゃ…とか、
そんなことを考えていたんだろうなあ。
でも、メンバーが勢揃いしたのは、
それからだいぶ経ってからだった。
みんな、のんびりとしたものだった。
自分だけがどうにも不自然というか、
どこに収まっていいのかわからなくて、
部屋の隅で押し黙っていたことを覚えている。
とても暑い日だった。
じっとしているのは、だから、けっこう辛いことだった。

天気がいいから先に撮影をやろうということになった。
西郷山公園で芝生に寝転んだり、ホーム・スタジオの
近くで立ちポーズをキメたりといった時間が続いた。
僕は興味のあるフリをしたり、
興味のないフリをしたりして、
それとなく彼らを見たり、見なかったりしていた。
公園から次の場所へ移動しようとした時だったかな。
自転車に乗って遊んでいた子どもに
佐藤伸治が笑いかけるのがなんとなく目に入った。
その笑顔には何か驚くほどのものがあって、
その時、僕は、この人は僕とは何か決定的に違うものを
持っていると、なぜかそんなことを感じてしまった。
彼一流の照れもなく、なんの警戒心もない笑顔。
それはその後、僕には二度と目にすることのなかった
表情でもあった。

移動する時に車の数が足りなくて
僕は佐藤伸治のルノーに乗せてもらうことになった。
「ナイトクルージング」の“あの車”だと思って、
僕は心の中で喝采を叫んだよ。
これに乗っている時の彼の気持ちが
あの歌なんだと思ってドキドキしっぱなしだった。
だからなんだと言われても、
僕にはそれがなけなしの思い出なんだ。
ほんの5分か10分もないような時間だったけれど、
信号で止まったことや路面が夏の照り返しで
実に眩しく光っていたこと。
それからザ・フーだかなんだかのエネルギッシュな
ライヴのテープだかCDだかを佐藤伸治がかけていて、
「ここだよ、ここ」と言いながら、
MCのマネをしていたこと。
全部、よく覚えている。

インタビューはフィッシュマンズの
ホーム・スタジオであるワイキキ・ビーチで
やることになった。手順はだらだらと、
そして、なんとはなしに決まっていった。
来るべき時が来てやっぱり僕は緊張し始めていた。
ワイキキはポリドールから歩いてすぐの距離にあった。
淡島通りに面した小さな二階屋で、
テラス・ハウスに最小限の機材を持ち込んだだけの
簡素なスタジオだった。
チャートを制覇するようなヒット・シングルが
あったはずもないのにどうしてホーム・スタジオを
持っているのか、いささか不思議ではあったけれど、
フィッシュマンズには何か僕には計り知れないような
カラクリでもあるのだろうと思って余計なことは
考えずにドアを開けて中へ入ることにした。
些細なスペースに小さなテーブルとソファ。
それからほどなくしてインタビューが始まった。

スタジオボイスの松山編集長がまず
フィッシュマンズを表紙にするつもりだと切り出した。
佐藤伸治の表情はまったく変わらなかった。
何事もなかったように、
あ、そう、といったような顔をしていた。
そういうことには馴れているよ
といった顔つきにも見えた。
その晩、しかし、彼は下北沢のとある店で、
スタジオボイスの表紙だぜ、と嬉しそうに
人に話しているところを目撃されている。
彼にはお気の毒だったけれど、彼が座っていた席の近くに
ボイスの編集部員が偶然居合わせたのだ。
その話はあっという間に僕のところまで伝わってきた。
そうか、やっぱり嬉しいのか。
よかった、よかった。
その話を僕に伝える松山さんも
それはそれは嬉しそうだった。
この話は誰にも言っちゃダメですよと言って
松山さんが表紙のアイディアを僕に漏らしてから
数カ月が経っていた。
早く過ぎないかなあと考えて過ごした
幸福な数カ月だった。

一度は逃げ出したいとまで思った
インタビューだったけれど、終わってみると
意外なひと言が頭から離れなくなっていた。
帰り道で、そして、家に帰ってからも、
僕は佐藤伸治が言った
“「佐藤くん、ダサいよね」と言われても…”の、
「佐藤くん、ダサい」が何度も頭の中で
よみがえってしまい、おかしくてしょうがなかったのだ。
「佐藤くん、ダサい」「佐藤くん、ダサい」と、
その晩はそのひと言を何度も反芻して
笑い転げてしまった。
「空中キャンプ」を聴いて圧倒されていた僕が
そのひと言でようやく解放されたのかなんなのか、
いまになってもあの時の自分の気持ちは
ちっともわからないけれど、佐藤伸治という人が
好きで好きでたまらない僕がその時に生まれたことは
確かだったと思う。
口べたな佐藤伸治。
答えにくい時はソファに倒れてしまう佐藤伸治。
終わった途端にひとりでさっさと帰ってしまった
佐藤伸治。

あの日からちょうど2年8カ月しか経っていなかった。
佐藤伸治とはその後、インタビューで3回と
楽屋や打ち上げの席で7〜8回、それから
バッファロー・ドーターのライヴで1回と、
あとは偶然街で会ったことが3回あるだけだ。
たったのそれだけだ。
彼が死んだと聞いてから、
僕はそれを信じるのに一苦労し、
信じないことにも一苦労し、
泣いて、静かになって、また泣いた。
あまりにも短い間のことだったので、
佐藤伸治という人はホントは初めからいなくて、
すべては夢だったように思えてくることもある。
佐藤伸治が結びつけてくれた人たちと
何事もなかったかのように話を再開し始めた時は
本当にそんな気分になってしまうこともあった。
親しかった人たちの笑い声を聞いて、
なんだ、そうだったのおーッというような驚きを
交換して、雨が降って、春風が吹いて、
近所の幼稚園では入園式が行われ、
そのすべてが春の一要素のようにして
僕の心を弾ませてくれる。
佐藤伸治がいないというのに、
僕はいま春を感じている。

1999-04-18-SUN

「佐藤伸治さんの告別式の報告です」

3月20日、フィッシュマンズの佐藤伸治さんの
告別式がありました。
冷たい雨の中、1000人以上のファンが集まっていました。
10年間のフィッシュマンズのメンバーがみんな揃って、
佐藤君が作った歌で、佐藤君を見送りました。
みんな揃っているのに、佐藤君だけがいない。
佐藤君の声が聞こえるべきところで、それが聞こえない。

訃報を聞いた火曜日から、佐藤君がもういないということが
いったいどういうことなのか、
どういうふうに心の中におさめたらいいのか、
分からなかったけれど、
そしてそれはいまも分からないのだけれど、
佐藤君の声だけが聞こえないフィッシュマンズの演奏は、
彼がもう歌うことはないということだけは
事実なのだと報せていました。

佐藤君にインタビューするとき、
わたしはとても緊張しました。
彼の言葉はたいてい、
単純で短い数語の単語で終わってしまうのです。
つかみどころがなくて、というよりも、
彼のことを分かりたいと思えば思うほど、
佐藤君は遠くへ行ってしまうようでした。
何度かインタビューをしたあとで、わたしは、
佐藤君に直接なにかを聞くよりも
佐藤君が歌う歌からだけで伝わってくる佐藤君だけで
充分だと思うようになりました。

彼が歌う歌には、わたしが生きている場所と時代への
それから、ひとが生きて、風が吹いて、
晴れたり降ったり、避けられたり避けられなかったりする
いろいろなことに遭遇し、感じ、体験することを
細い針のようなもので正確に指し示すかのような言葉で、
本当に充分に、言い表されていたから。

でも、この1週間、
外を歩いていて、洗濯物を干していて、
キャベツを刻みながら、
たくさんの彼の歌が頭の中で聞こえてくるけれど、
本当の彼の声を聴くことができない。
頭の中の頼りない天使やイン・ザ・フライトや
ひこうきやチャンスや感謝やいかれたベイビーやなにかは、
まるで、こういうときのことを
知っていたみたいな歌で・・・

あまりにとりもめもなくなってしまいました。
佐藤伸治さんの告別式の報告でした。

夏休み/水越真紀

1999-03-26-FRI

ほぼ日刊イトイ新聞さま
ずっとほったらかしにしていて、
突然、こんなお知らせをしなければならなくなるなんて、
本当にごめんなさい。どうか、これを掲載してください。
よろしくお願いします。

夏休みより

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ずっと、フィッシュマンズについて
何かを書くことができませんでした。
今日はお知らせしなければならないことがあります。
フィッシュマンズのボーカリスト、
佐藤伸治さんが、亡くなりました。
今年に入ってから、ずっと静養中だったそうですが、
3月15日午後4時ごろ、容態が変わり、
息を引き取ったそうです。
享年33歳でした。

音楽葬が行われます。

3月20日(土) 14:00〜15:30
場所 「平安祭典葛西会館」
東京都江戸川区東葛西8−3−12
電話 03-3804-4741
交通 営団地下鉄東西線「葛西駅」下車徒歩8分。
   駅を出て環状7号線を南に行って左側。
   もしくは都バス仲町西組下車1分
   駐車場はありません。

供花については、
平安祭典江戸川支社 電話03-3804-4741 まで。
音楽葬なので、平服で、とのことです。

こんなことが起こるなんて、
夕べからずっと、
そしていまもまだ信じられない気持ちです。
言葉が何も出てきません。

夏休み
水越真紀

1999-03-18-THU

年末年始の「ほぼ日」は、
何かお役に立つようなことを!
(やろうとしたけど、無理だったかな?)
 

夏休みさんの、
1999年のお年玉的なコラム。


1.この1999年は、有名なアンゴルモアの大王が、
なんかしにくる年らしいのですが、
ヤツから(             )を守りたい。
この、(  )の中にコトバを挿入して、
そのことについて、考えとか意志とか理由とかなんでも、
たっぷり書いてください。


…コワいのは、しつこく議論をふっかけてくる人
(こういったアンケートも含む) 。
ムダ話は三度のメシよりも
好きだったはずなんですけど、
ここ2〜3年、これは! !!と思えるような
ムダ話ができたためしがありません。
ムダ話のようでいて真剣な 人が多かったり、
自分にもあらゆる意味で
余裕がないせいだとは思いますけど、
そう いう意味ではいささかノイローゼ気味です。
このままでは人が変わってしまいそうです。
おまけに最初に
ノストラダムスのような話題を持ち出される
距離の人間関係というのが
僕としては最も苦手のようで、
いっそのこと予言の解釈通りに
何かがどうかなってしまったら
それはそれで面白いと思ってしまったり、
そんな自分がイヤで湖に向かって
大声で叫んでしまったりするので、
世界全体の堪忍袋の尾みたいになってる
ノストラダムスの大予言から
自分としては「自分のノド」を守りたいと、
かように考え込んでしまいました。賀正。


2.「ほぼ日」の読者に、どういうことを期待してますか。
よく読者に筆者への注文をたずねたりしてますが、
ここでは逆なんです。


とくにはないけど、
自暴自棄にだけはならないでほしいかな。
そして、間接的なコミュニケイションの不思議を
愛していてほしい。


3.いっちばん好きな食べ物はなんですか?
おせちに飽きている読者に、教えてください。
できたら、いますぐ食べたいと思わせるくらいに、
たっぷり、強くおすすめくださいませ。


“好きな食べ物”は自分でつくった料理。
自分で自分の包丁に魅了されています。
本を見てつくってるだけなのに、
どーしてこんなにおいしくできちゃうのか、
自分でもナゾです。
自分の料理がそれなりのものになってからは
外食にもほとんど行かなくなってしまいました。
今晩はまぐろのアラを
料理し損ねてやや失敗だったんだけど、
また三日後が楽しみなのだ
(注・我が家では彼女と僕が三日おきに
食事当番にあたっている)。
そうだよ、この質問を考えた人に
お説教をくれてやろう。
おせちをつくった人は、
きっと自分のおせちに飽きたりなんてしないはずさ。
おせちに飽きるなんて、
“つくってもらう”のが
当たり前になっているヤツの傲慢とか怠惰とか、
そういった思い上がりのなせる技さ。
ま、僕はおせちなんてつくらないからさ。
どうしてもおせちがイヤなら家出しろとか、
そういうことしかアドヴァイスはないですね。
ちなみに僕も母親のつくるおせちは嫌いでした。
というより母親自体が嫌いでした。
ついでに言えば別居していた父親は
数の子だけを買ってきて、
“たった一品だけのおせち料理”と称していたな。
自由が丘の小さなアパートでした。
そういう考え方もアリなのかと
小学生だった僕は
いたく感銘を受けたことを覚えています。
そうやって様々なところで
ブレイク・スルーが起きているのです。
あっちでブレイク。こっちでブレイク。
そして世界はもはやズタボロです。
そんな時、
誰かに料理をつくってもらえるとしたら、
僕はグラタンが食べたいです。
アジの干物やセロリとベーコンのみそ汁とか、
好きなものはいろいろあるけれど、
フランス料理だけは人に“つくってもらう”と
おいしく感じるのです。
“いっちばん”は自分ではつくれないのです。
ふふふ。

PS/昨日の朝、牛乳が切れていたのを忘れていて、
いつものようにオートミールをつくってしまい、
苦しまぎれにあずきを混ぜて食べてみたら
かなりウマウマでした。
オートミールを常備している人は是非やるべし。
でも、トーストにあずきと
マヨネーズを塗ったのはそれほどではなかった。
大根おろしとマヨネーズは合うのにね。  


4.ヒマでこまっている、正月の読者のみなさまに、
ヒマのつぶしかたを伝授してください。
本なら書名とか、なるべく具体的にお願いします。


1月3日 「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で
     最も多く使われている“単語”を検索する。

1月4日 硯と墨、もしくは筆ペンを取り出して
     その“単語”を紙に書く。

1月5日 書き上がった“書き初め”を持って
     文字だけのプリクラを撮りに行く。

1月6日 プリクラを自分がよく利用する
     缶ジュースの自動販売機に1枚だけ貼る。

1月7日以後はどこかに出掛ける時は
必ずこのプリクラを持ち歩き、
“同じ文字が書かれているプリクラ”を見つけたら
自分のプリクラを隣に貼ってくる。

1月15日 ヒンズー・スクワット5回。

2月1日までに一番多くプリクラが貼られた自販機を
「ほぼ日刊イトイ新聞」のそれ ぞれ県庁所在地とする。

2月2日 午後5時、“県庁所在地”の前で
     プリンを食べてクラクラする。

2月3日 正常な生活に戻る。
(ホントにやる人がいないことを願っています)

1999-01-03-SUN

[後編]

ガキガキガキガキ…ッと荒々しいノイズが降ってきた。
すべてが台なしだ。
1991年のダンス・フロアを
死と再生の場に作りかえてしまった
ハードコア・テクノのようなリズム・パターンが
いままでそこに広がっていた美しい光景を
一瞬でかき消してしまった。
まさにえッという間だった。

フィッシュマンズというのは刺激的であることに対して
否定的な心情の持ち主なのか、
それともそれはライヴの時には無視される原則なのか、
どうもよくわからないんだけど、
この時の場面展開に限って言えば、
それは明らかに悪趣味としか言いようのないものだった。
しかも、その、バッドな感触をぬぐえないままに、
曲は、煉獄を引きずり回されているような
「ウォーキング・イン・ザ・リズム」へと進む。

1周、2周、3周…と煉獄のなかでとろ火で焼かれながら、
雰囲気はだんだんとツラく深刻なムードになっていく。
快感と苦しさがないまぜになったような
インスタントなマゾヒズム。
やめて欲しいような、やめて欲しくないようなという…アレ。
しかもそれが役所に電話して
「しばらくお待ちください」と言われた時のように
やたらと長く感じられる。

極めつけは「DAYDREAM」だった。
初めてこの曲をライヴで聴いたのは、
昨年末のリキッドルームで、
その時はフィッシュマンズが初めて
ありきたりのロック・バンドのようにして
この曲を演奏したことがまずはとても新鮮で、
しかもその感情の地滑りにザーッと押し流されていくような
エンディングにはただとにかく圧倒されてしまったのだけど、
それが、この日はメランコリーにもほどがあるというほど
悲痛な感触を帯びて響いてきたのだ。
追いつめられるというよりは
僕の何かが剥き出しにされていくような…。
ひんやりとした佐藤のヴォーカルが
僕の体からありとあらゆる温度を奪っていき、
少しずつ温めてきた意志や気持ちといったものを、
それはないものにしようと襲いかかってきた。
つらかった。

生きているということはただそれだけで悲しいこと。
人間はひとりでは生きていけないという事実は、
もしかしたら人間は
意味もなく互いに殺し合うという現実よりも
キツいことなのかもしれないと。
僕は、そんな気分にはなりたくなかった。
フィッシュマンズの音楽を聴いて、
それを言ったらおしまいじゃないかと、
僕の友人はかつて言ったことがあるけれど、
それに対する僕の反論がいま頃になって
宙に浮いているような気がしてきた。
そうかもしれない。

フィッシュマンズというロック・グループは
“誤解されたままでもいい”ということを
確認させてくれるバンドであり、
彼ら自身も「空中キャンプ」というアルバムでは
孤独であることを妙に楽しんでいた人たちだった
と僕は思うんだけど、
そのことと表裏一体のようにして存在している感情についても
口を閉じることのない人たちだったのだ。
そのことからいつも目を逸らしてきたことを、
僕はいやでも思い知らされた。

「SEASON」や「いかれたBABY」へと曲が進んでも、
僕の気分は変わることがなかった。
それらの曲は空気の中をすべって後方へと消えていった。
聞こえなかったとした方が正確かもしれない。
僕の感情はまるで底引き網に引かれたようにして
すべてが引きずりだされてしまった後のようだった。
そして、客席に照明が灯り、すべては終わった。

フィッシュマンズのライヴ・アルバムがリリースされたのは、
それから2カ月ぐらいしてからだったろうか。
僕が日比谷野音で経験したようなステージは、
そのアルバムには収められていなかった。
僕が経験した極端な上昇や下降は
「8月の現状」のどこにも存在していなかった。
(アルバムに関する詳細は「エレキング」20号を参照)。  

1998-11-01-SUN

[前編]

 いろんな人が遠くに感じられた一日だった。
もしくは唇の裏に立て掛けてあった言葉以外は
コミュニケイションの手立てをすべて失ってしまい、
それをただそのままにしておいたというか。
僕は、そう、自分がどこかに
位置していることだけを楽しみながら、
その日は昼過ぎからずっとフィッシュマンズの
ステージが始まるのを悠長に待ち続けていた。

ありとあらゆる他人を素通りして
まるで幽霊のような気分でいたこと。
もしかするとそのことが最高の前座だったのかもしれない。
そして、厄年か天中殺のように
キツいことばかり起き続ける僕に、
その日の午後になって起きたことは、
悪い札がせーのですべて
ひっくり返ったような出来事でもあった。

 日比谷野音はまず鬼のように寒かった。
野外というロケーションがものの見事に裏目に出ていた。
あまりの寒さに一度組んだ足はなかなかほどけず、
缶ビールをあおっている人が狂人に見え、
陽の沈んでいく日比谷野音が
ブルース・リーの処刑場に思えてきたほどだ。

最初の1時間半はアメリカで人気のバッファロー・ドーター。
シュガー吉永を中心とする
ブリキ細工のようにペラペラとした演奏は、
それこそMITで催されるロボットのための
エンターテイメントというった雰囲気で、
フィッシュマンズから茂木欣一がゲストで
1曲だけドラムを叩くと、
川の流れが唐突にそこにあらわれたような気がした。

そしてようやくフィッシュマンズの
ローテイションがやってきて
いつものように気負いたっぷりの
イントロダクションが客席を侵食し始める。
「ウェザー・リポート」の複雑でダイナミックな
リズムが足元まで伝わってくると、
僕は、最初はふざけ半分で激しくステップを踏み始めた。
なにもそこまでせわしなく動かなくとも・・・
と頭の片隅で思っていたことも薄々は覚えているのだけど、
予想外の寒さにじっと耐え続けてきた自分が
結果的にそれを押しのけてしまったのだ。
そして、僕はそのまま“目立つ客”
となっていったらしい・・・ははは。

 前の晩、僕はカンテツだった。
久しぶりに一睡もしないで小説を読み通し、
そのまま友人の一周忌に駆けつけ、
高校時代の友だちと駅ビルの寿司屋でランチを食べ、
帝国ホテルのわきでフッシュマン佐藤とすれ違い、
休む間もなくその足で野音に来ていたのだ。
激しく踊っているという自覚がある一方で、
僕はつまり、
それと同時にヒジョーにキョーレツな睡魔にも
逆らえない自分にも気づき始めていた。

そして、どういうメカニズムでそういったことが
起きるのかは脳内革命のナゾだけど、
ふたつのまったく異なる感覚に同時に
スウィッチが入ってしまったようなのだ。
僕はハッチャキになりながら ・・・
半分は寝呆けていた。
そして、僕のカラダはいつのまにか
自分の意志で動かしているものではなくなり、
ペースの言うなりというか、
曲が進んで「静かな朝」になる頃には
なんとも気持ちよく雲の上を漂い始めていた。

乱雑だったPAの音も急速にクリアに聴こえ始め、
僕はPAの人が途中で交替したのだと
勝手に思っていたほどだ。
そして、フィッシュマンズが出す音は
ふわふわとした素材でできたジャングル・ジムが
空中に張り巡らされていくようにしてどんどんと膨張を続け、
日比谷という座標軸も呑み込んでいくように思えた。

 曲間に空きができたり、
MCなどでサウンドがしばらく途切れたりすると、
僕にもシュピーッと我に返るような瞬間が襲ってきた
(そして周囲から自分がいかに掛け離れているかを
知識としては知ることができた)。
その頃までには、僕も、
自分が一体どうなってしまっているのかということが
それなりにわかるようになっていたから
(なるほどティム・リアリーの言うとおりだった)、
曲が弱いときには目をつぶってサウンドに集中するようにし、
“その状態”を逃すまいと心掛けるようになっていた。
それこそウチで飼っているネコが
食卓の魚料理を見つめるときのような集中力である。
曲にインパクトがある時は僕の努力も軽くて済み、
どうしてそんなに滑らかに動けるのだろうと
自分でも不思議なほどカラダの動きは流麗さを増していく。
分子運動とかブラウン運動とか、もしくはタキオンがどうした
といったような物理学用語をそこに当てはめたくなるほどだった。

 7曲目に演奏された「それはただの気分さ」の
後半部をなすインストゥルメンタルが、
そして、とんでもなかった。
フィッシュマンズがこんな
感覚を訴えかけてくるバンドだとは、
僕はいままで思いもよらなかった。
その曲は、僕を、ゆっくりと、ゆっくりと、
そして、高い所へ、高い所へとおし上げていった。
それはカンペキに抽象的なサウンド・イクスペリエンスであり、
それまでにフッシュマンズが試みていたような
ポップ・ソングとの折衷作ではなかった実用性だけの追求。
あるいは剥き出しになった快楽主義。

こんなことをやってしまうんだ・・・という驚きは、
実際には、だいぶ後で
冷静になってから襲ってきたものだったけど、
その時の僕はその曲の効果をむさぼるのに必死で、
食卓から刺身をゲットした時の
ネコとまったく同じようなものだった。
唐突だっただけになおさらガツガツと
反応していたかもしれない。
歩道橋の上から650万円相当の札束が
バラバラと降ってきた場面に
居合わせた人なら、僕の気持ちも少しは
理解したもらえただろうか。
そして、その曲のエンディングには
とても美しい光景が広がっていった...。

(つづく)  

1998-07-10-FRI

 人間は、人間を好きなのか嫌いなのか。
よく分からない。
せっせと、自分と同じ姿をした人間を殺す準備をしたり、
実際に殺したりしているけれど、
それは違う人間への愛のためだと思ったりもできる。

自分自身についても、
自己愛と自己嫌悪の間を行ったり来たりしている。
身近な他人も愛したり罵ったり、近づいたり避けたりしていて、
「私は(すべての)《人間》が好きだ」と言えば、
思いやりのある小さな嘘でもいってしまったような気分になるし、
だからと言って、うつむきがちに
「人間嫌い」なんて言うのは
自己愛者の気どりみたいに思えたりする。

わたしをいちばん傷つけるのは人間で、
この世でいちばんの幸せを感じさせてくれるのも、
思い出してみれば、やぱり人間ばかりだ。
いったい人間は、人間を好きなのか嫌いなのか。
いったいわたしは?
そしていったいフィッシュマンズは?

いまフィッシュマンズの軌跡は、
CDだけでも7年分遡ることができる。
最初の方の何枚かはついこの間、
おまけROM付きで再発されたばかりだし。
とはいえ、お世辞にも大ヒットはしていないので、
まだまだチャンスや縁に恵まれた人しか聴いていないのが現状。
そこで、
この音なし新聞でフィッシュマンズを紹介しようとすれば…。
わたしと同じように“あの”『空中キャンプ』から
聴き始めたイトイ編集長は
「他の音ではなく、この音じゃなきゃヤダっていうのを
ちゃんとキメてる、キメられるバンド」
というのだが、
筆者はその意見に素直には頷けないところもある。

フィッシュマンズのライヴは何度も観たが、
彼らが同じ曲をCDや前のライヴと
まったく同じように演奏していることはほとんどない。
そのこと自体は、確信的に音をキメていることを否定する
材料にはならないけれど、彼らがいろいろやってみたいと思い、
実際いろいろやってみていることは確かだ。
1曲で30分以上ある『ロング・シーズン』だって
ライヴのたびに違う曲になっている。
とにかくどんどんどんどん彼らの曲は姿を変える。
少なくとも、唯一無二の音としてキメていることは
ないようではある。

つい1週間前にできあがった夏に発売される新作を
わたしは聴いたばかりだ。
ついでなので書き添えておくと、タイトルは『8月の現状』。
この2年半のライヴからあれこれチョイスして、
あれこれ細工した、あれこれの作品が収められている。
80分近く。

(幼いころはテレビ画面のサッカー・ボールにさえ
じゃれついていた猫のキクも、推定4歳半になるまでは
ネコが叫ぼうが犬が呻こうが、
もうすっかりテレビはテレビと知らんふり。
あれこれ神経に影響を受ける人間の気が知れん
とばかりきっぱりと、
バーチャル・ワールドを割り切って生きている。

そんな彼女が、実に3年ぶりに機械から出た生物の声に
目を見開くときが訪れようとは! 
その声こそ、『8月の現状』のなかの
サトウ・シンジの第一声だった。
なんとしらじらしいエピソードなんだろう。
あからさまに嘘くらい作り話の気配が濃厚である。
ああ、しかしこれは本当のことなのだ。

すべては1998年の『8月の現状』だ(本当は5月の現状だが)。
2年前の演奏にもかかわらず。
この選曲、この編曲、密度、それに空白。

最初の問いに戻る……いったいフィッシュマンズは
人間が好きなのか嫌いなのか?
『空中キャンプ』は独特の辛辣さと
ニヒリズムをそなえながらも
“結局のところ人間こそが希望やら感動やらを私にくれる”
ようなアルバムだったけれど、
次の『宇宙 日本 世田谷』は
“人間がもっともわたしを絶望に追い込む”ことを
思い出させるものだった。

で、今度のライヴ盤は、
両方がぐちゃぐちゃにほうり込まれている。
それはこの2枚からの選曲が多いから、だけじゃない。
もちろん、既発表ヴァージョンとはどれも
全部まったく違うアレンジで、しかもそのアレンジが
『空中キャンプ』収録曲を内向的に、
『宇宙 日本 世田谷』の曲を外交的に
変えていたりするのだから。
わあっと外交的な顔になって、次の瞬間に自分の殻に閉じこもる、
そういうくり返しの80分。

世界と自分はどういう関係にあるのか、
または、どういう関係になりたいのかが、
びっくりするほど分からない。大混乱。
でも、これこそが《現状》だっていうことのリアリティだけは
ものすごく、ものすごく分かってしまう……気にさせる。
それは、私だってそうやって暮らしているなという
心当たりにぶつかるからかもしれない。

そうか、猫のキクが機械から出る音に本気で反応したのは、
この人間たちの混乱の、生々しいリアリティのせいなのかもしれない、
なんてこじつけたくなっている。
ときには人間が好きで、次の瞬間には嫌いになって。
それはちっともはっきりしない。分かりやすくもない。
プロデューサーのいるファクトリーでプロダクトされる
《商品》のような整理整頓がぜんぜん施されていない。
わっ、人間! って感じ。

人間が好きなのか嫌いなのかなんて、どっちかにキメるのは、
どっちにしてもちょっと無邪気過ぎるんだろうな。
こういう現状の、無邪気になれないフィッシュマンズはあした、
日比谷野外音楽堂でライヴをします。
きっとまた、聴いたことのある曲の、聴いたことのない
《6月7日の現状》が観られるに違いない。
当日券ありそう。
対バンはバッファロー・ドーター。

正直言って、フィッシュマンズって
こーんな面白いヤツらなんだぜー、
ということが筆者にはうまく言えない。
本当に彼らが面白いヤツらかどうかさえ分かっていないので、
なんか、周りの方から触ってみようかと思っている。
フィッシュマンズを発見した男、
奥田義行っていう人について知っている面白いことを、
これからたぶん、この新聞でお伝えすることでしょう。
フィッシュマンズについても
わかったことがあれば書くでしょう。
では、あしたヤオンで会いましょう。
17時、スタート!

1998-06-06-SAT

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