智慧の実を食べよう2
“WONDER S CHOOL!”
学問は驚きだ。へ
智慧の実をとどけます。
『学問は驚きだ』制作中の言葉から。

第5回
「すごい」よりも「物語」が欲しい

(※『智慧の実を食べよう』の単行本とDVDを
  作っている時期に、伝えること考えることに関する
  糸井重里による講義が、東京芸大で、行われました。
  こういう問題意識が「智慧の実」というイベントを
  生んだんです、ということを、お伝えしたいと思い、
  数回ぶん、糸井重里の談話を、おとどけいたします。
  本とDVDのセットは昨日から発売中。ぜひどうぞ!)



(「智慧の実を食べよう2 学問は驚きだ!」当日の写真より)

最近はもう、
「すごい」ということには、飽きました。

映画を見にいくのでも、
芝居をたのしみにいくのでも、
人に会いにいくのでもいいですけど……
ほとんどの作品や、ほとんどの主張が、
「こんなオレって、すごいでしょう?」
というプレゼンに見えて、仕方がないんです。

たとえば、
「十年に一度の話題の大作映画!」
みたいなものが、があるとしますよね。
映画がはじまる前に、試写会で
「……どこに、いちばん苦労しましたか?」
という取材が入るような映画には、
ぼくも何度か出かけたことがあるのですが、
なんだか、その取材で聞こえてくる言葉が、
「どれだけ、時間をかけているか?」
「どれだけ、お金をかけているか?」
「あのシーンは、ほんとにすごかった」
ということが、ほんとうに多いんです。

実際に、
そういう前口上をさんざん聞いたあとに、
「よほどすごいんだろうなぁ」と思って
映画を見はじめたりすると、あんまりよくなくて。

「……もう、帰りたいなぁ」
と思いはじめてから気づくのは、
「たしかにすごいんだけど、
 映画がはじまる前に、みんな、ひとことも、
 おもしろいと言っていなかった……」
ということだったり、するんです。

「おもしろくないけど、すごい」
よく考えてみると、そういうものごとが、
沢山あると、気になるようになりました。

そして、そういうものは、
僭越ながら言うとすると、
だいたい「できること」の範囲なんですね。

どういうことかというと、
「あの壊れるシーンがすごかった!」
とかいう話題が、よくあるけど、
「3人」が戦っているシーンを撮ることと、
「1万人」が戦ってるシーンを撮るのとでは、
「戦う」と思いついた意味としては
同じなんだ、ということです。

もちろん、ものすごい規模で作りあげれば、
「よくそんなことをやったよなぁ」
という感心のしかたが、あるんですけれど、
それは、人の気持ちを、
根本から揺るがすようなことではないと思う。

ぼくらはそれが見たくて
映画を見にいっているわけではないぞ、と。
もちろん、すごいシーンを
積み重ねた映画は、眠らないで済むんです。
だけどそれは、退屈しのぎだとか、
心臓がドキドキするということだけで、
「あぁ、おもしろかったー!」
という感想には、つながらないと考えています。

最近の映画などで
さまざまなものを見ていると、
どうも、みんなが
「あれは、いい!」「すごい!」
と言っているものは、ほとんどが
そんなものばかりになってしまった……。

それを見て育った人が、今度は自分が
どんなにすごいものを作ってやろうかと
考えるので、映画は、どんどん、
退屈になっているんじゃないかと思うんですね。

ぼくは、
「すごくはないんだけど、
 いつまでも味残りしているなぁ?」
みたいなもののほうが、
ずっと、気になるんですね。
たとえば、『冬のソナタ』なんですけど……。

みんな『冬のソナタ』のことを、
「こんなものだろう?」と思っていますよね。
「母親が見ているものだ」ぐらいのことで。

だけど、
「死んだはずのヨン様が出てくる!」
というだけで、うれしいんです……。
あのテレビドラマのなかでは、
「前の話を、忘れないでよかった」
というシーンが、いくつも出てくるんだけど、
そういうつながりのなかに、
自分が入っていくと、
物語というものが、編まれていくんですね。

前には、ここまで編んだ。
次の目、次の目、とつづくなかで、
編みものができていくわけです。
「すごい毛糸があります!」
というものではないですよね。

前のものを見ていてよかったと思う自分がいる。
そして、そう思う現在があって、未来が編まれる。
その、時間のつながりを感じられたときには、
おもしろくて、気持ちがいいんです。
どこかのところで、自分が時間になじむから……。
『冬のソナタ』は、そういうものに満ちていると思う。

フラれた男の気持ちも、ずっと続いているし、
ヨンさまの顔のよさも、連続している。
見ている側に、時間が蓄積されていくんです。
時間のなかで、親しんでいくから、終わる頃には、
ヨンさまに、ちょっと興味が沸いたりするんですね。

一方で、「すごい」という映画って、
「これが出てきた」「あれが出てきた」
と、箇条書きで、要素が出てくるんです。
「そのひとつずつを覚えていればいい」
というかたちですから、どうしても時間が蓄積しない。

促成栽培の連続になると、
「すごかったけど……内容はおぼえていない」
ということになってしまうんだと思うんです。

何かを話して、人に伝える。
何かを作って、発表をする。
うまくいくときにもあれば、
そうではないときも、ありますよね。

「ほぼ日」を読んでくれている
若い人たちのメールには、
「ときどき、絶望しちゃうんですけど……」
という話が、よく書かれているんですが、
それを言うなら、ぼくはいつも絶望しています。

毎日のように絶望していれば、
絶望とは言えないというか……無力、なんです。

20歳の頃というのも無力でしょうが、
それは、50歳だろうが60歳だろうが、
そのつど、いつも、無力なんじゃないでしょうか。

そこで、人に手伝ってもらいたいからこそ、
その人が何を欲しがり、何をしたらよろこぶかを、
真剣に考えて、それを提供して仲間になるわけです。

「明日から、いいことをするから、
 みんな、当然参加するよね? よろしく」

これは、みんなが逃げるさそいかたです。

自分だけにいいことが起きる話は、
人をひっぱることができないですし、
たとえば、お金の力でなんとかするにしても、
大きな賛同や大きな共感がえられないかぎりは、
人って、本気では手伝ってくれないんです。

だから、ビル・ゲイツに至るまで、
それぞれの人が、それぞれに、無力なはずでして……。

さそいかける言葉として強いものは、
「その行動が、
 その人の夢の実現を手伝うことになる」
という提案なんだと思います。
もちろん、もうけたいという気持ちだって、
大きいんだけど、最終的には、
お金でひっぱることのできる領域は、狭い。

もちろん、何をプレゼンテーションしても、
全員の賛同なんて、えられないんだけど、
どこかで、
「この目的は、かなりの人をつかめる!」
ということだって、ありうるわけなんです。

その目的こそが、その時代の人の、
「ほんとうにしたいこと」なんだと思います。
それが見つかったとしたら、ひょっとしたら、
それぞれ無力な人間が、集まったおかげで、
大きな仕事をできたり、
すてきな目的を達成できたりするわけです。

だから、いいものを作るために、
いろいろな人の協力を得たいのならば、
いつも、絶望しているぐらいのほうが、
油断しなくて、いいんじゃないかとさえ思う。

いつも絶望をしては
プレゼンテーションをしていれば、
ノックアウトされそうになったボクサーが、
意識がないのに、立って構えるように、
「絶望から立ちあがるクセ」みたいなものが、
からだに、ついてきますから。

社会でおもしろく生きていくには、
ヘンなことをからだにしみこませることも、
できていたほうがいいわけだから……
アダムとイブが智慧の実をかじったあとの人間は、
ヘンなことを、しているんでしょう。

ただ、無理なことをしようとしても
むずかしい場合には、
できることを積みかさねて、
相手にものを伝えるための
階段をのぼっていけばいいんだと思う。

はなから、あぶないところで
コミュニケーションの勝負をすると、
お金もないのに、掛け金を高く積んで、
サラ金に借金するみたいになりますからね。
だから、力は、ないときには、
自分で、磨いたりすることですよね。

誰しもが、
人間関係のなかに生きていると思います。
ともだちがいたり、仕事仲間がいたり……
そういうものが、誰もいないというまま、
生きている人は、ひとりもいないと思うんです。

歯車どうしが、
複雑に関係しあっているから
ひとつがなくなってしまうと困るように、
自分ひとりで「オレ、もうやめる」と
決められるようには、ぼくたちは生きていません。
決められるんだと思う人もいると思うけど、
自分が死んだら、この人が困る、というように、
人は、社会的に生きている存在でもあるわけです。

「お父さん、死なないで」

と言われるような場面に接すれば、死も、
自分で決められるものではない、と気づくわけで。

そういう、解きがたい関係のなかで、
それぞれの人が、生きているわけだけど……
それって、とても大切なものなんだとぼくは思う。

「すごさ」は、
「1」を「10」に増やすことができます。
増やせるというのは、コピーができるということです。
コピーができるようなものについては、ぼくは、
「それは、できちゃうんだから、
 他の誰かが作ればいいや」というふうに見るんです。
 
ところが……ある人が、
他の人との関係のなかでそこにいるというのは、
ほんとうに世の中から、いなくなっちゃったら、
その人は、戻ってこないわけですよね。

人だけじゃなくて、景色も、空気も、時間も、
なくなったら、戻ってこないものなんです。
そういうもののほうが、「すごさ」よりも、
ずっと価値があるということについては、
多くの人が、もうわかりかけているからこそ、
「すごい」映画が、じょうずに
当たりあぐねているような現状があるわけです。

最強のスポーツチームを作ったとしても、
それと互角に戦えるライバルがいないとしたら、
おもしろくないわけで……。
だから、権力や金銭がなしとげられる範囲って、
意外と、狭いんだとも思うんです。

どこかから、すごいものを探すよりも、
そこにあるものを、どう活かすのか……。
おもしろい表現については、
最近は、こんなことを、考えています。

(つづきます)

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2004-10-07-THU

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