智慧の実を食べよう2
“WONDER S CHOOL!”
学問は驚きだ。へ
智慧の実をとどけます。
『学問は驚きだ』制作中の言葉から。

第4回
増やせないものをたのしむ

(※『智慧の実を食べよう』の単行本とDVDを
  作っている時期に、伝えること考えることに関する
  糸井重里による講義が、東京芸大で、行われました。
  こういう問題意識が「智慧の実」というイベントを
  生んだんです、ということを、お伝えしたいと思い、
  数回ぶん、糸井重里の談話を、おとどけいたします。
  本とDVDのセットは昨日から発売中。ぜひどうぞ!)



(「智慧の実を食べよう2 学問は驚きだ!」当日の写真より)

「すごい」というものは、基本的には、
増やしたり、ためこんだりするものばかりで、
実はそれは、誰にでもできるんだと思います。

でも、ほんとうにおもしろいのは、
ある人の個性や、ある土地の個性が出ていく
時間の蓄積のなかにあるものだと考えています。

急に生まれるものって、だいたいは、
「すごいかもしれないけど、おもしろくない」
というふうになるんじゃないかなぁ、
と、最近、思っているところでした。

「すごさ」は、ためこむことができますが、
これはもう、お金とそっくりなんです。

理論的には、いくらでも増やせることができます。
百億円の札束って、想像できないでしょう?
でも、そのことについて話すことは、できてしまう。

それに似たようなことで、
すごいとか、すごくないとかいうことが、
「観念の比べあい」
「規模の大きさの勝ち負け」になるとしたら、
これはもう、ちっとも、おもしろくないと思う。


だって……よくよく考えてみると、
ぼくたちが、生まれて死ぬまでの一生は、
がんばっても百歳や二百歳で尽きるわけです。
これは、どうがんばっても、増やせない。

生まれてから死ぬまでの時間は、
どうしても増やせないなかで、
それぞれの、1日という単位のなかを、
「今日は、おもしろかったなぁ」
「明日は、もっとたのしくしたい」
と、願ってすごしているわけです。
時間は、増やせないし、人には、あげられません。

ただ、洗濯機のような道具が
「しなきゃいけないこと」を
かわりにやってくれるおかげで、
手間を省くことはできるんだけど、
自分の時間を増やすことは、根本的にはできない。
他人にあずけたり、ためておいたりして、
あとで使うということも、できようがないんです。

ただ、こういう
「増やせないもの」
という前提のある時間こそが、
価値としては、
「増やせるすごさ」なんかよりも、
ずっと、上なんじゃないかと思っているんです。

時間は、
役に立つとか、役に立たないとか、
そういうものをこえています。

遊びも、余計なことだし、
あとで何なのか、具体的には
説明のしようがないものなんだけど、
たしかに、たのしんだという実感はある。
そういうものが、
おもしろいのではないでしょうか?

遊びなしで話をしていると疲れてしまうし、
必要なことだけやっているだけでは、
人間って、生きていられないと思うんです。

つまり、ぼくが言いたいことは、
「すごいこと」も、
「すごくないこと」も、
「必要なこと」も、
「必要ではないこと」も、それを、
使ったり、受けとめたりすることについては、
おんなじことをしているんだと思うんです。

だったら、勘定できる部分を増やすかどうかより、
それに触れている時間に、
どれだけ遊んでいられるか、というのが、
ぼくが「いいな」と思うもののような気がします。


「おもしろいものを作る」
ということが、よく言われますけど、
作ることに関しては、
ぼくは、プロデューサーの重要性を、
とても大きいなぁ、と思っています。

自分が、作る側の選手に
どっぷり浸かっているあいだや、
あるいは職人を目指している時には、
「ディレクター」までが、
ものを作っている人間だというふうに
思いやすくありませんか?

だけど、だんだん、
ものを作る経験が増すにつれて、
ものを作るということは、
「プロデュース」とセットなんだと
だいたいの人は、わかってくるわけです。

たとえば、何かを話すときだって、
聞いてくれる雰囲気と、
話したくなる雰囲気がなければ、
話す内容そのものが、
どこかに飛んでいってしまう……。

だから、場所とか、
「行ってみようか」
という気持ちまで含めて作品なのだし、
都市計画のようなところまで、
受け手のことを想像しないと、
すばらしい作品も、
見られなくなってしまうおそれがある。

たとえば、
「どこに飾られているか」を
意識している作品と、
そうでない作品とでは、
おのずと、意味が違ってくるわけです。

そういうことを考えすぎると、
「効率のいい表現」だけを求めて、
おもしろくもなんともないんだけど、
どっぷりと市場調査のようにならずに、
作品のプロデュースをできたとしたら、
それは、表現者としての、
「夢の先にある表現」
なのではないかと、ぼくは思っています。
個人としての表現の、すこし先のこと、です。

もちろん、馬鹿になれないと
いけないところもあるわけだし、
表現者がマーケッターを兼ねすぎると、
メッセージがなくなる場合もあるだろうけど。

ただ、人の欲望や、表現する欲望は、
もちろんはじめは個人的なものだけれども、
先、先、とたどって進んでいってみると、
最後は、都市計画に達するのではないか?
と、ぼくは思っています。

「作品を作る」
「誰かをおもしろがらせる」
そういう欲望を積みあげた先には、
町を作るとか、都市を作るとか、
そんなところに近いところにいくのではないか?

だからこそ、プロデュースには興味があるし、
いろいろなもののプロデュースをしたいんです。

「智慧の実を食べよう」という講演会は、
こういう人たちを、ふだん話す相手とは、
違う人たちの前に連れてきたということが、
プロデューサーとしての仕事だった、
と思っています。

(つづきます)

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2004-10-06-WED

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