YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson515
 大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか 4
 ーー表現して生きる


自己表現と、演技と、表現。

役者でなくとも、
私たちは、知らず知らずにこれらを
使い分けながら、生きている。

表現して生きるか?

それとも演技でたちまわるか?

4回目を迎えたこのシリーズ、
読者の考察は、ますます深い。

今週もまず、
おたよりから紹介したい。

(*ここでの、私なりの「演技」と「表現」の定義は、
 Lesson512をごらんください。)


<もぐる>

先週の、映像監督さんの書いていた、
このことばに共感しました。

「優れた役者は、必ず台本に戻ります。
 何故ここでこの人はこう言うのか。
 何故こう言わずこの言葉を言うのか。
 普通こう言わない所、にその人物の意図が
 隠されているものです。」

私はマンガを描いています。
描き始めて20年くらい経ち、
30歳を過ぎた今でもプロを目指しています。
自分のマンガには何が足りないのかを、
プロの漫画家さんにうかがったところ、

「もっと主人公の中にもぐるといいね」

というようなことを言われました。
出来ているつもりだったんだけど、
言われてから3年くらい経った今、
やっとできるようになってきた気がするんです。

人物の中にもぐる、ということは
「なぜ」を常に解消することが必要でした。

「なぜ」この人はこう言うのか。
「なぜ」こう思うのか。
こんな時、この人なら、何て言うんだろう?
どんな経験をして来たんだろう?

私は、今までやらなくても頭に入っていると思っていた
人物設定を、細かくやり直しました。

どんな両親、どんな地域に育ち、
どんなものが好きで嫌いか。
それはなぜか。

そしたら、自分で「大丈夫」と思える作品が
出来上がりつつあります。
今までは面白いか面白くないかがわからないものしか
描けなかったのに。

そして、ネーム(下書きの下書き)に行き詰まると、
「なぜ」ととことん向き合うと進む、
ということも知りました。
「この人ならこう言うな」とかが
出てくるようになりました。

私はまだ、自分に嗜好が近い人しか設定できないけど、
大竹さんは自分の知らない人の「なぜ」と向き合って
やっているので、すごいなあと思います。

大竹さんと泉谷しげるさんの食わず嫌い、大好きです。
(宏子)


<地下2階に降りる>

大竹しのぶさんの表現についてのシリーズ、
今の自分にとって「まさに!」で、
ひとりで嬉しくなってます。

僕は高校生のサッカーコーチを仕事としてるのですが、
ここ最近、自分から出てくる言葉に
どうしても納得がいかなく、
なんかずっとそのことを考えていまして。

前は心のどこかから言葉が「スルスル」っと出てきて、
言った後に、頭が理解してた感じだったのに、
今は頭が何かを言おうとしてるんですね。
だから、届かない。

そんな時に、
村上春樹さんのインタビュー集を読んでて、
こんな言葉を見つけました。

「人間の存在というのは
 二階建ての家だと僕は思ってるわけです。

 一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、
 テレビ見たり、話したりするところです。

 二階は個室や寝室があって、
 そこに行って一人になって本読んだり、
 一人で音楽を聴いたりする。

 そして、地下室というのがあって、
 ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。
 日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、
 なんかぼんやりしたりするんだけど、

 その地下室の下にはまた別の地下室がある、
 というのが僕の意見なんです。

 それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので

 普通はなかなか入れないし、
 入らないで終わってしまう人もいる。

 ただ何かの拍子にフッと中に入ってしまうと、
 そこには暗がりがあるんです。

 それは前近代の人々がフィジカルに味わっていた暗闇、
 というものと呼応する暗闇だと僕は思っています。

 その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、
 普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。

 それは自分の過去と結びついていたりする、

 それは自分の魂の中に入っていくことだから。

 でも、そこからまた帰ってくるわけですね。
 あっちに行っちゃったままだと
 現実に復帰できないです。」

ここ最近の自分は、
二階から言葉を発してたんだ、
まずは、地下室に行かなきゃだ、と。

そして、ズーニーさんの文章を読んでて思いました。
大竹しのぶさんは、
「地下二階」に下りれる方なんだなーって。
(哲)


<湧き出る>

「自分の中から湧き出た成分で、
 別人格を表現する。」
ってーのは、小説家や漫画家にも当てはまりそうですね。
(青い人)


<狂気さえ内に飼いならせるキャパシティ>

外から作る、内側から作る、
実際のところ、2つの違いは無い、と思いました。

理解、が、大竹しのぶさんの言う
「そこへ行く」ことだというのは、
ホントにそういうことだな、と思います。

では型から入る伝統芸能の演じ手や、
「こういうときこういう表情をするんだ」
「こういう口調になるんだ」
という入口から役作りをする俳優が
そこへ行かないかというと、
そんなことは無いと思うのです。

外から攻めようが内から攻めようが、
行き着く先は同じという気がするのです。

役の核を理解していれば、
役の身体の動きは後からついてくる、それは1つの方法。
役の身体の動きを頭で計算して自分の身体で行う、
体(形)から入ることで内側には核が醸造されていく、
それもひとつの方法。

行き着く先は、役の核、おなじゴール。

インプットとアウトプットで言うと核を捕まえる作業は
インプット。内から作る、外から作るというのは
インプット方法の違いに過ぎず、目指すところは同じ。

そしてインプットしたら、アウトプット。
核を捕まえたらそれをどう表現するか、
そこでもやはり方法はいろいろあるのだと思います。

どの方法をとってもうまく行くことも
行かないこともあると思います。

テクニック重視で表現をこねくりまわしたら、
せっかく捕まえた核がどっかに飛んでいっちゃった、
なんてこともあるかもしれない。

また、核を捕まえれば後は自然にできるはず、
と考えてかえって表現が成立しなくなる俳優も
いるでしょう。
役の気持から言えば、
今は誰にも聞こえない程の声でしか喋れない。
間近で見る小劇場ならオッケーかもしれないけど
ちょっと規模が大きい劇場だと、表現として成立しない。

核を手放さず、表現として成立させる。

表現(=アウトプット)という作業をしながら核を抱えて
いられるシールドの厚さ。

一流の運動選手が卓越した体感覚と筋力を持っているように
一流の俳優はものすごいバランス感覚と
精神の筋力を持っていると思います。

これらは鍛えてこそ生きるというものであり、
大竹さんはもともと感覚が鋭いしシールドも厚い人だけど、
一流の演出家や共演者に恵まれて
更に鍛えられてきていると思います。

そして、もうひとつ。

核は、小さな繊細な感情ばかりではありません。
普通なら持ちこたえられないほどの激しさ、
狂気を含んでいることもある。
それを、内側に飼いならせるだけのキャパシティ。

俳優、体力と精神力が無ければぜったい出来ませんね‥‥。
(たぶん、すべての表現者がそうなんでしょうね)
(アキ)


<そこに行くか、彫り出すか>

大竹しのぶさんが憑依型なら、
香川さんは彫刻型だと思います。

決して直感だけじゃなくて、
自分のアンテナをフルに働かせて
演じる人物を捉えて、
全身を使って香川さんにしかできない
その人を演じていると思います。

けれどそこにはどこか
香川照之さんのエキスが
残っている。彼らしい
彫刻刀の削り跡が残っている感じがします。
その削り跡は繊細でやさしい削り跡です。
(ともこもこ)


<他者を語るとき、自己も表現される>

お話の内容は、香川照之さんのことですが、
なぜ、そこにズーニーさんの表現を感じるのでしょうか。

香川照之の役者話を借りて、
ズーニーさんの中にあるものを表現している
とも言えますね。

そうでなければ、
「17キロ痩せた」エピソードは使えません。
借り物では、その話が浮いてしまい
ズーニーさんの主張は通じないでしょう。

演技を見るとは、役者の演技を見ているというより、
やはり、演じようとしているその中身を
私たちは、受け取ろうとしている。

そこに惹きつけられ、揺さぶられ、
感動するのだと思います。

形だけのコピーでは、心に届かないのは当然ですが、
その役者の中(心の中‥‥)に起こっている
感情や魂の振幅・振動が、
見るものの心に同質のものを呼び覚まし、
共振・共鳴を起こすのだと私は思います。
(いわた)



いわたさんの
「香川照之を語るとき、
 ズーニーさん自身が表現されている」
という言葉に、はっとした。

安易な他人への自己投影ではなく、
自分とちがう他人を理解しようとして、
相手の地下へ、そのまた地下へ、
という気持ちでもぐっていって、

「これだ!」という核心がひっぱり出せたとき、
不思議だが、自分の地下2階も、
一緒に連れてひっぱり出されたような達成感がある。

「表現には、潜る力が要る。」

自己表現には、自分の深層に、
他者を表現するには、他人の深層に。

「要約」は、まさに、他人の深層に潜る作業だ。
1万字の文章を読み、
1文=70字前後で要約するとなったら、
もう、筆者の地下へ地下へと潜るしかない。
書かれている事実よりも、
その地下にあるものへ。

そのようにして書かれた要約は、
的をはずしていないものでも、
一人一人ちがったオリジナリティがあって、
読んでいて、とても面白い。

筆者の根本思想を言葉で適確に表現している
にもかかわらず、
なぜか、要約したその人自身を、
雄弁に表している。

自己表現の余地などひとつもない要約が、
かえって、表現した本人をあぶりだす。
第二の創造だ。

この自己表現、そして他者理解に立った
他者表現を、実生活でやっていこうとするとき、
葛藤が生じる。

表現か? 演技か?
次の3人のおたよりを見てみたい。


<表現か? 演技か?>

Lesson512で下記の問いかけをされています。

>「表現」するか? 「演技」をするか?
>女優でなくとも、私たちはみな、
>日々のコミュニケーションで問われているように思う。
>例えば大切な人のまえで、
>歓びを伝えるとなったとき、
>「脱ごう」とするか? 「技術」で魅せるか?

この質問に強い訴求力を感じました。
決して人ごとではないです。

私自身、「人といかにして繋がるか」をテーマにしており、
また人事という仕事をしていることもあり、
強く突きつけられる、考えさせられることです。
日々、仕事でプライベートで人と接する中で闘ってます。

日々のコミュニケーションの中で「自己表現」なのか?
「表現」なのか? 「演技」なのか?

「自己表現」は自分の根本思想に根ざしたもの、
「表現」は相手の根本思想への共感・理解、
「演技」は技術的な話
のように理解しました。

それぞれ特徴があり、どれも大事。
そこにはそれぞれ「視点」があるように思いました。

「自己表現」は自分の内から見た視点

日々考え、自分に向き合い、
自分の根本思想とリンクしていない場合、
ここがブレがちです。
最近、知人に聞いて印象に残っている言葉で
「何をするか」ではなく「どう在るか」
というのがありますが、
「在り方」というのは
根本思想と自分の表現が
リンクしているかどうかだと思います。

「表現」は相手の内から見た視点

独りよがりじゃない、共感する力が重要
(「自己表現」以上に高次だと思います)

「演技」は相手(外側)から自分を見つめた視点

理想的なのは、意識的にスキルを磨き、
無意識のレベルまで昇華させることです。

意識して行動している時はまだ「演技」、
練習して、考え抜いて、
無意識のレベルで出せるようになって
初めて「自己表現」「表現」に辿り着けるように思います。

人間は繰り返すことで慣れるもので、
意識しないでも行動することが出来るようになります。
その中で多様な視点から見た、
自分からも相手からも腑に落ちる発信が出来ることは、
双方にとって幸せなことだと思います。

物事に完全に浸り、精力的に集中している感覚を
「フロー状態」と言いますが、
正に女優・俳優さんはそんな状態なのかもしれません。

ちゃんと根ざした状態のため、迷いがない。

私はまだ「在り方」を固めるところから闘っています。
自分に、相手に根ざすところまで辿り着ければ、
迷わず進めるのではないかと思います。
(tamo)


<肩書きを見て、表現を見る目の無い人々>

「大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか」を
興味深く読んでイソップ寓話の
「オオカミ少年」を思い出しました。

この物語を、

狼が来た「演技」をした少年に
何度も騙されたため、
最後に少年の「自己表現」を「演技」と思い込んでしまい、
大切な家畜の羊を狼に食べられてしまった
村人達の真実を見抜く力の無さがテーマの物語だ
と思うきっかけがありました。

それは、「誰が言ったかが重要」と言う知人の言葉でした。
ズーニーさんがメディア力と
定義されている力でもあります。

この力を持っていなかった駆け出しの頃のタモリの芸を
評価して東京に呼び寄せて生活の面倒をみた赤塚不二夫は、
どんな能力があったのでしょうか?

それは、肩書きや実績や他者の評判などよりも
自分の判断・直感の方を信じる、
人を見る目のメディア・リテラシーだと思います。

読者の渡辺さんの書かれた、
このような違い=表面の「向こう側」を感じる力
とも近いと感じます。

なぜ、メディア力が必要なのでしょうか?

それは、肩書きなどが無ければ判断のできない人が
多いからではないでしょうか。

考えるのが面倒な結果として判断しない場合もあり、
相手の肩書きなどを自己実現のための手段や
責任回避に使うなどの計算をしての場合もあると思います。

私にもこの側面はありますが、
自分に嘘をつかなければならない時には
他者からどう思われようが
この側面は自分の中で選択されてこなかったように
感じます。

そして、このバランスが逆と感じる人と話していると、
目に見えない輪郭のあやふやな
厚い柔らかそうな膜が現れます。
この人々は私より
私の知る日本社会の中では世渡り上手だと、
妬ましく思う時があったりします。

私の「自己表現」そのまんまの正直は、
周りに波風を立たせます。

まず自分の心で問うて
練った正直を心がけるようになるまでは
ずいぶんと波風を立たせてきたものです。
道は険しくまだまだ過去形にはなりません。

でも、例えば「子どもは親の犠牲で育つもの」と
他者についつい訴えてしまう年配の母である人のように
自己犠牲と思いつつ役割を「演技」することは、
どうしてもできなかった。

そう生きて来たから、
だから目に見えない膜を感じるのかもしれません。

そして、その「演技」をしている人に対して
心を脱ぐと温度差が生まれ傷つき
孤独を感じる事があります。
そのために心を脱ぐ事に臆病となって、
人との関わりが浅くなっている私がいます。

こんな私が人と深く関わって行くには、
練られた正直=相手の根本思想を捉えた上での「表現」と、
ユーモアを心がけるのが良いなと
書きながらまとまりました。
(春姉)


<無防備に心のうちを表現できる中高生>

ズーニーさんの「根本思想」と、
3日のダーリンコラムの「じぶんのなかのこども」とは、
同じような位置にあるものではないかと思いました。

よく、新聞の投稿欄で中高生が書かれている内容をよむと、
大人以上にもっともで、真剣で、
読む人の心をとらえる文章が書かれていて
感動するときがあります。

それは、中高生がじぶんに武器や飾りを
身に付けなくてもよい状態で心のうちを
表現できるからだと思いました。

そして、そんな中高生と同じような心で
与えられた役をこなせる俳優の方や、芸術家、
音楽家などが、人の心を揺さぶることができると
思いました。

でも、一般の人たちは、
社会的地位や物品などの「武器や飾り」を身に付けることに
必死になり、体が重すぎて
身動きが取りにくくなっている人が
多く見られるように思います。

自分の心を取り出せる心掛けがある人が、
生きる道が広くなるのかなと、思いました。
(マック)



こどものように、
無防備に、自分の心をまっすぐに外へ出す。

それが日常にできるかというと、
私たちは、つい、いい人や、
期待されるカタチを演じ、
いつのまにか、
外側を見栄えのいいものにしようと
やっきになっている。

演じとおして、いつか、本当になってしまえば
いいのだけど、私も春姉と同じで、
それが自分にうそをつくことになる場合、
どうしてもできない。
自己をあらわに出して、
人を傷つけ、自分も傷ついてしまう。
孤独になる。

表現か? 演技か?

それでも「表現」して生きるのだと、
読者のSarahさんは言う。
このおたよりを読むと、
私は、ささやかでも、
自分が心から本当に言いたことが書けたときの、
あの、内からみなぎってくる
揺るぎない自信を思い出す。

勇気をくれるSarahさんのお便りを紹介して、
きょうは終わりたい。


<表現が道幅をひろげる>

ズーニーさんが言う「想いと皮膚との距離」、
そうなんだなぁと思います。

香川さんが言う「自分」も、

「自分の皮膚を通った」という意味の
「自分」なのだろうなぁと思いました。

少し前、来日したロバータ・フラックさんの
ライブに行きました。

70歳を優に超える彼女は、
演奏するほどに音楽家を超越し、
圧倒的に人間として存在していました。

隣の席の若い人が降参した様子で、
「なんだこの説得力は。」
とつぶやくのが聞こえました。

音楽とともに、「生きる」という果てしない想いが
紡がれていて、
その規模の大きさと深さに心地よく圧倒されました。

不安や恐れは、自分を知らないほどに
湧き上がるものだと感じています。

表現することは、自分を知るために有効な手段であり、
不安や恐れを和らげる効果があるように思います。

仮面をかぶって演技すれば、
消耗することなくその場を通過することができます。

その代わりに不安がしんしんと積もり、
その不安から逃れるため、演技し続けるしかなくなり、
また演技するしかない環境に
自分を追いやってしまうように思います。

以前、自分が演技しているのかしてないのか、
自分でも分からなくなったことがありました。

よく分からないままにもがくことで、
表現できないままに消耗されていきました。

そこから抜け出すため、

自分の中からの想いであるか自分に問いながら、
一つ一つ確かめて
自分の想いを表すせるように意識しました。

自分の想いを表すと
その場に波乱を起こすこともありましたが、
その波乱は乗り越えないとならない
壁のようなものだったと、
今分かります。

波乱を起こしながらも自分を表現することで、
自然に絆というものを織り成していけるのだということを
感じています。

表現に取り組んだ人の背後には、
表現した分だけの幅をもった道ができるように思います。

その道幅の分だけ自分を知り、

幅が広くなるほどに、不安は道の端へ
追いやられていくのは確かです。

道幅を広げ、自分を確認しながら
長い道のりを歩いてきた時、
その道のりが説得力になるのだろうと思います。

大竹さんもきっとそうなのだろうと。

もちろん、自分を知れば、
自分の中の憎しみなどの存在も知ることにもなります。

憎しみなど消えてほしい想いに限って、
簡単に消えてくれないものだと思いますが、

自分の道幅を広げることにより、

例え消せなくても、
相対的に小さくすることができるように思います。

ロバータ・フラックさんも、その道幅で
聴衆を圧倒していたように思います。

その場ではなく、明日の自分のために
表現していたいと思っています。
(Sarah)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-11-10-WED
YAMADA
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