YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson512
  大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか



「食わず嫌い王」は、
スターが2人出てきて、
相手の「嫌いな食べ物」をあてるゲームだ。

とんねるずの司会で、フジテレビでやっている。

対決するスター2人は、
向かいあって、
4品ずつ食べ物を食べる。

うち1品は大嫌いだ。

それがバレないように、
嫌いな物を食べるときでも、好きなふりをして、
おたがい相手をだます。

このゲームで、
「最弱王」の異名をとる
史上最も弱いスターがいる。

女優、大竹しのぶだ。

ほかの人は、
大嫌いな食べ物を口にいれ、
たとえ吐きそうになっても、
ぐっとその気持ちを押し殺し、
平気をよそおって、笑顔をつくる。

だが、大竹しのぶは、どうしても、
何度やっても、それができない。

嫌いな食べ物を口にいれるやいなや、
さっと表情が曇り、
全身から「いやぁ〜」という気配が漂いまくる。
顔をゆがめ、身をよじり、
だれが見ても、すぐ、この食べ物が嫌いとわかってしまう。

だから過去5戦で1勝もできていない。

多くの人は、こんな疑問を持つ。

「大女優の大竹しのぶは、
 なぜ嫌いなものを好きな演技ができないのか?

 女優といえば、悲しくなくても、さっと涙を流せる。
 だますのはお手のもののはずだ。」

考えて、わかったことがある。

私は芝居をやっていなし、科学的な根拠もない、
でも、表現指導に半生を捧げてきた立場から、
以下、あくまで私の考えを述べてみたい。

「表現」と「演技」は似て非なるもので、
大竹さんがやっているのは、演技ではなく表現だ。

これが私の結論だ。

もちろん「演技」と言っても、さまざまな定義があるから、
ここでは自分なりの定義で話したい。

ここで、私が「表現」というのは、
内にある想いを外に出して通じさせる行為だ。

芝居で言えば、
自分の中にある、
悲哀・憎しみなどの想いを、
表情・声色・身振り・手振り・行動などで表して、
見えるカタチにして外に通じさせる。

一方で、私がここでつかう「演技」の定義は、
あくまで自分だけの定義だが、

実際そうではないのに、
技術を駆使して、見る人に、
本当にそうであるかのようなふりをして見せる行為だ。

例えば、本当は悲しくないのに、涙を流し、肩を落とし、
見る人に本当に悲しがっていると思わせる。
本当は嫌いなものを食べていて吐きそうなのに、
笑顔をつくり、パクパクと大口でほおばって見せて、
見る人に大好きであると信じ込ませる。

例えば、悲しみ。

「表現」する場合、

まず、自分の中に、本当に悲しみの気持ちを
しっかりつくる必要がある。
自分の中にないものは、表現できないからだ。

生きていれば、喜怒哀楽、善意・悪意、美・醜、
いろんな気持ちを体験してきているはずだ。

そこで、
自分の経験・記憶の引き出し・想像力も総動員して、
自分の中の、どっかなにかから悲しみを引き出してきて、
生で、リアルな、悲しみの気持ちを
自分のなかに湧き起こす。

この時点で、表現者は、
失恋なら本当に失恋したのと同等の痛み、
愛する人と死別なら、本当に死別したくらいの喪失感、
実際のものと遜色ない悲しみが、
自分の中に湧き起こっている。

そして、ここからが大事で、
人には悲しいのに、なかなか言葉や表情、
態度に表せない人もいる。
想いと皮膚の距離の遠い人だ。

表現者は、ま反対で、
想いと皮膚の距離がすごく近い。

腹の中に悲しみがあれば、
すぐさま顔色・表情・立ち姿・歩き方、
言葉や行動になって表れ出でるように訓練されている。

一方、「演技」をする場合。

ほんとうに悲しむ必要はない。
悲しいふりをすればいいのだ。
ただし、見る人に説得力があると思わせるレベルまで。

そのレベルに達するには、
高い技術・能力・計算が要る。

日ごろから
人は悲しいときどんな表情や態度をとるのか、
見聞をひろめ、研究し、
「肩を落とすんだな」とか、「目はうつろにする」とか、
「泣き声は張り上げるより抑えたほうが、より悲しく映る」
とか、試行錯誤を積み重ね、技術を磨いて、
いざとなったら、さっと説得力ある演技が
できるようにする。

この場合、
自分の内面は悲しくないのに、
いわば、技術で人を魅了するわけだから、
想いと皮膚が直結していてはまずい。

つまり、気持ちがそのまま顔に出てはいけない。

自分の腹の中の気持ちと、
表情・身振り・行動は、必要に応じて切り離せて、
コントロールできるようにしなければならない。

「演技」が、外堀を埋めるように、
あるいは、仮面をかぶるように、
気持ちより、見え方に重点を置くとすれば、

「表現」は、まず内面の気持ち、
そして、気持ちが顔にさっと出るように、
気持ちと皮膚の通じのよさとスピードに重点を置く。

私は、「演技」と「表現」のどっちが良い悪い
と言いたいのではないし、
2つはパキッと分かれるものではなく、
一人の女優のなかでも、
演技と表現を使い分けているかもしれないと思う。

私が言いたいのは、どちらも努力や訓練が要るが、
努力のベクトルや、筋肉の使い方は、
まるで違うということだ。

そして、気がついてみれば、
私は、表現する人が好きだ。

女優でも、音楽をする人でも、
文章でも、表現をしている人に魅了される。

なぜなら、それは、ヌード以上にヌードだからだ。

もし、目の前で、女優さんが服を脱ぎ
裸になったとしたら、
どきっと衝撃が走り、本能がくらっとつかまれる。

表現は、服を脱いで裸に、だけでなく、
皮も肉も脱いで、その中にある自分の内面をさらす。

たとえば、殺人者を表現するにしても、
恋心を表現するにしても、
まず技術ではなく、まず自分に問う。

経験・記憶の底から、
自分が殺したいほど悪意をもったことはないか、
恋心を抱いたときはどうだったかと、
探して、引き出してくる。

優れた表現者は、この取り出すスピードがはやい。

一瞬にして、記憶の底にあった、
自分の悪意や恋心をリアルに蘇らせる。

そして、日ごろから、
気持ちを表情や全身で表す訓練をしていれば、
気持ちと表情の距離がほとんどなく、
演じようとしなくても、気持ちをつくっただけで、
もう、自ずと、顔や全身に表れている。

そのようにして表れたものは、
もともと、その人の中に本当にあった想い。

ヌードだし、生だし、リアルだ。

だから、殺意の表情にしても、
恋心にしても、はっとするし、
見てはいけないものをみてしまったような
ドキドキ感がある。

大竹しのぶさんは、
私の独断で、本人が聞いたら怒るかもしれないけれど、
「表現」をしている女優さんだと思う。

表情やしぐさが、生々しいし、
ヌードを見たようにはっとする。

きっと、自分のなかに、
生々しく気持ちを湧き起こし、
気持ちと表情の通じが非常によいのだろう。
体の中にその気持ちが生まれたら、
もう、自然・天然に、
顔色や表情・全身に
表れ出でてしまう体質なのだろうと思う。

だから、大嫌いな食べ物を口にほおばったとき、
その気持ちが、間髪をいれず、
顔色や表情・全身に、そのまま表れてしまう。
驚くべき表現力で、生々しく。

まさに表現の天才だと、私は思う。

その目で、女優さん・男優さんをみると、
演技するタイプでなく、表現するタイプの人は、
消耗が激しいと思う。

技術で魅せるなら、
自分の内面を切り売りする必要はない。

でも、表現するには、
自分の中で見たくない、自分の悪意や、失意、
悲しみまで、何度となく呼び起こして、
再現せねばならない。
そのたび、内面は疾風怒濤だ。

それだけでも消耗激しいのに、
ヌード以上にヌードに、自分の内面をそのまま外に表して、
人前にさらすことになる。

恥ずかしくもあるし勇気も要る。

でも、内なるものを出した爽快感・表現する歓びが
あるから、
消耗したぶん、活力もみなぎるのだろう。

私は、そんな表現者にやっぱり引かれる。

「表現」するか? 「演技」をするか?

女優でなくとも、私たちはみな、
日々のコミュニケーションで問われているように思う。

例えば大切な人のまえで、
歓びを伝えるとなったとき、

「脱ごう」とするか? 「技術」で魅せるか?

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2010-10-20-WED
YAMADA
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