いつか来る死を考える。 いつか来る死を考える。
人生の終わりの時間を自宅ですごす人びとのもとへ、
通う医師がいます。

その医療行為は
「在宅医療」「訪問診療」と呼ばれます。

これまで400人以上の、
自宅で死を迎えようとする人びとに寄り添った
小堀鷗一郎先生に、
糸井重里がお話をうかがいます。
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
第6回 森鷗外の生き方、小堀四郎の生き方、 さて自分は?
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小堀
さきほども言いましたが、
ぼくはこの世界にやってきて
最初の1~3年あたりは、
「これは自分の本来の医療じゃない」
という思いがありました。
糸井
そのセリフもすごいですよ。
小堀
でも、だんだん
そういうことじゃなくなってきたのは
確かです。
糸井
外科手術の技術者としては、
腕が上がっていくことが喜びだったのに、
いまはそうじゃない。
小堀
そうですね。
腕がいいか悪いかってね、
まず仲間うちでわかるんです。



ぼくの10年上くらいの先輩が、
ほかの大学の教授になって
東大病院から巣立っていったことがありました。
当時ぼくは入局したばかりだったので、
彼はいわば師匠のような存在でした。
その人が東大を出るとき、こう言ったんです。



外科の教授には3つ大事なことがある。
ひとつは学問。
論文の数とか、論文を原著で書くとか、
はたまたそれが何回引用されたかとか、
そういった業績が外で考慮される。



ふたつめは腕。
病院の中であきらかになる、手術の腕です。
手術部の看護師、麻酔科の医師、みんな、
外科医の腕を知っています。
糸井
外では学問、中では腕。
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小堀
そして、医局の中では人柄。
まったくそのとおりなんです。
だからぼくは東大にいる間、
論文をたくさん書いて手術がうまくなることを
意識していました。
というのはね、やっぱり
父の影響があるんです。



息子というものはどうしても、
父親の生き方を目の当たりにするものでね。
父の小堀四郎は、画壇から離れて、
とにかく絵を売らない画家でした。
糸井
そういうお考えだったんですね。
小堀
異様な人だったんですよ。
勲章や名誉やお金は
すべて堕落のもとだという画家でした。
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糸井
お父さまの名前が世に知られたのは
亡くなってからだったんですか?
小堀
少なくとも90になってからですね。
卒寿のとき東京ステーションギャラリーで
個展が開かれました。
世に出たのはあれが最初だと思います。
そんな人が身近にいたことで、
かなり影響がありました。



もうひとりは森鷗外、母方の祖父です。
彼の生き方については、
赤の他人よりは真に迫って読んだと思います。



彼はあの時代に生まれたあの立場の男として、
名誉や勲章や栄誉を
否定できない場所に生きていました。
けれども彼が最後に、
本当に何を望んでいたかはわからない。
鷗外は最後に「史伝」という、
ちょっと地味な人びとを描く、
一見つまらないように見える仕事をしました。
鷗外が最後に何を考えていたかは、
評論家がたくさんいて、有名な遺言もあって、
さまざまに語られています。



祖父の生き方を、
いわば100%否定したのが父。
ぼくはそこでバランスをとろうと考えたんでしょうね。



医局で手術はうまくなりましたし、
最後に東大を辞めたときは助教授でした。
どこかの教授になる道もあったけれども、
たまたま縁があって国際医療センターに行きました。
なぜなら外科でいちばん大きな規模だったからです。
20年ほど前で140床ありました。
食道の手術がたくさんできるし、いい環境でした。
ぼくは外科医として思い残すことはありません。



東大から国際医療センターに行ったのは、
やっぱりバランスをとったんだと思います。
「孤高の外科医」なんてないから。
糸井
そうか‥‥、ひとりでは手術できませんね。
患者さんがいないと。
小堀
そう。つねにそう思っていました。
有名病院で手術ができてトップになっても、
患者さんが集まってこなきゃ
手術はできないんですからね。
糸井
それはよっぽど、
お父さんといた時代に学ばれた、
ということでしょうか。
小堀
よっぽどね(笑)。
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糸井
画家で90歳まで作品を出さなかったのは、
かなり大変なことですね。
小堀
世の中で喧伝されていることと事実は、
少し違うんです。
母親が細腕一本で支えたなんて言われますけど、
それも確かなんだけども、
そういう時期は短かった。



父親の実家は名古屋の旧家でした。
昔はみんな、子どもに土地やら何やら
財産を配分したものなんです。
ぼくの父も分配されて、それが
名古屋の一等地にありました。
それをずいぶん売り尽くして、
ぼくらは生きていたんです。
母親もがんばったけども、それだけじゃないです。
基本的には大変なことですよ、
だって父親が稼がないんだから。
糸井
その生き方そのものを
息子はずっと見ていて。
小堀
文化に飢えたような時代で、
父の信奉者は多かった。
仲間の集まりなんかだと、
ぼくはきまって父親の膝に乗り、
「梅原龍三郎とか安井曾太郎とか、
あんなのはダメだ」
なんて言うのを聞いてました。
それが頭にしみこんでますよ。
「名誉はダメだ、金もダメだ、地位もダメだ、
安井を見ろ、ろくなもの描けてねぇ」
そういう話ばっかり聞いて育ちました。
だからまぁ、ぼくはバランスはとれたと思います。
糸井
「だからバランスはとれる」
というところが、
ちょっとわからないです(笑)。
小堀
だってバランスですよ。
そういうのを見てて(笑)、
孤高の外科はあり得ないとわかったんです。
糸井
なるほど。
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小堀
そして、ぼくがいた東大の第一外科は
日本でいちばん古い外科です。
東大では人におもねらないとか、
基本的なところでバランスをとろうとしました。
時の教授に対して
「あなたの手術はなんだ!」
なんて攻撃することも、ごくふつうにやっていました。
糸井
それは、先生は腕がピカイチだったから、
言えたのでしょうか。
小堀
ピカイチかどうかはわからないですよ、
いろんな人がいますから。
そのあたりのことは
東大病院の院長に訊いてみるといい。
「NHKで名外科医とあったけど、
本当に名医ですか」
と、訊きたければ訊くことはできますよ。



彼らはぼくが医局で何をやって、
どういう目で見られたかを知っている。
知っているけど、語らない。
訊いて正直に語るような人は、院長にはなりません。
糸井
そうかぁ。
小堀
「いやあ、立派な先生でした」
といってくれるでしょう。
糸井
そうかぁ(笑)。
(つづきます)
2019-09-24-TUE
小堀鷗一郎医師と在宅医療チームに密着した
200日の記録
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(C)NHK
小堀先生と堀ノ内病院の在宅医療チームの活動を追った
ドキュメンタリー映画です。

2018年にNHKBS1スペシャルで放映され
「日本医学ジャーナリスト協会賞映像部門大賞」および
「放送人グランプリ奨励賞」を受賞した番組が、
再編集のうえ映画化されました。



高齢化社会が進み、多死時代が訪れつつある現在、
家で死を迎える「在宅死」への関心が高まっています。

しかし、経済力や人間関係の状況はそれぞれ。
人生の最期に「理想は何か」という問題が、
現実とともに立ちはだかります。

やがては誰もに訪れる死にひとつひとつ寄り添い、
奔走してきた小堀先生の姿を通して、
見えてくることがあるかもしれません。

下村幸子監督は、単独でカメラを回し、
ノーナレーションで映像をつなぐ編集で、
全編110分を息もつかせぬような作品に
しあげています。

9月21日(土)より
渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国公開。
『死を生きた人びと 

訪問診療医と355人の患者』
小堀鷗一郎 著/みすず書房 発行
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小堀鷗一郎先生が、
さまざまな死の記録を綴った書。
2019年第67回エッセイスト・クラブ賞受賞。
いくつもの事例が実感したままに語られ、
在宅医療の現状が浮びあがります。
映画とあわせて、ぜひお読みください。
『いのちの終いかた 

「在宅看取り」一年の記録』
下村幸子 著/NHK出版 発行
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映画『人生をしまう時間』を監督した
下村幸子さんが執筆したノンフィクション。
小堀先生の訪問治療チームの活動をはじめ、
ドキュメンタリーに登場する家族の
「その後の日々」なども描かれています。