糸井重里
・昨日もここで書いたことだけれど、
大河ドラマ『べらぼう』の蔦屋重三郎は、
47歳の若さで脚気を患い、ほどなくして逝った。
同じくらいの年齢だったじぶんのことを思い出すと、
50歳を前に「ほぼ日」をはじめる時期から、
先輩の経営者に勧められ人間ドックに行くようになった。
それまで、病気がいいとは考えてなかったけれど、
どこかのところで、健康のことを気にし過ぎるのは
かっこわるい、くらいの気持ちでいた。
もちろん、それは若気の至りというものなのだが、
もっと遡って思い出せば、いのちを大事にすることさえも
かっこわるいことではないかと思っていた。
どこかで、いのちより大事なものはあると考えていた。
それはそれで一面の哲学的な真実かもしれないが、
ちっぽけな若い者が、軽はずみに言うことではない。
しかし、口に出して言うことはなかったけれど、
どこかで、じぶんのいのちは、じぶんの身体は、
じぶんのものだと思っていて、その始末をどうするかは、
じぶんで決めるものだと考えていた
(ばかだと思うけれど、過去に考えていたことを、
なかったことにするわけにもいかない)。
たぶん、人間ドックに行こうと勧めてくれた人は、
ことばでは言わなかったけれど、
「あんたのいのちも身体も、じぶんだけのものではない」
ということを教えてくれたのだった。
ぼくが生きて健康でいることは、
ぼくと共に生きている人たちのためでもある。
家族もそうだし、仕事をしているなかまたちもそうだ。
ぼくが、じぶんのものだと思っていたいのちも身体も、
それが損なわれたら、みんなに迷惑をかけることになる。
なかまの、その家族にまでもそれは及ぶということだ。
その当時は、じぶんにもあんまり説明はしなかったけれど、
そのときから、ぼくのいのちや健康のことを
「じぶんのものだぜ、勝手にするぜ」と考えなくなった。
47歳で亡くなった蔦重と、そういう話もしたかった。
たぶん、彼はわかってくれる男だし、そういう年齢だし。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんを粗末にあつかう人は、他人を大事にできないはず。