ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

老いの当事者として。

今回、格別にぐだぐだですので、
特にお若い方は読まなくていいと思います。

じぶんが、「老人」だっていうことに
理屈では気づいてるんだけど、
実感として、わかってないんだよなぁ。

たとえば、電車なんかでさ、
「お年寄り」に席をゆずろうっていうよね。
ぼくも、そう思って生きてきたよ。
恥ずかしながら、なにくわぬ顔してさ、
席を立ったりして、ゆずったこともあるよね。

で、それ、いつごろからか、
ゆずられる側になっていると考えるべきなのかね?
いまでもさ、「お年寄り」っぽい人がいると、
おれ、席を立つべきかもなと思ってね、
そわそわしちゃうことが、よくあるんだよ。

でも、冷静に考えると、
じぶんより年下の「お年寄り」のような気もするんだ。
このまま自然に時間が過ぎていくと、
ぼくも「お年寄り」としての自覚ができるのかなぁ。

横断するための目の前の信号が変わりそうなとき、
「いま渡るか、次を待つか」って判断をするだろ。
あれ、おれはひとりでいたら渡るね、確実に。
連れがのろのろしてたら、それに合わせるけどさ。
基本的には、走るよ。

どう考えても、ここ10年くらいは、
「お年寄り化」が進行してないような気がするんだ。
ただね、こないだ、
鉄棒で「逆上がり」やろうとしたら、
まったくできなくて愕然としたけどね。
でも、ずいぶん年下のはずの家人が、
「それは、もっと若いときからできなくなってるよ」
と、自信たっぷりに教えてくれた。

先に「お年寄り」になったはずの
吉本隆明さんなんかは、
なだらかな稜線のように衰えていくのではなく、
「階段状」に、がくっがくっと落ちていく、
というようなことをおっしゃってました。
横尾忠則さんは、七十歳になったら「来る」と。

もっと、ちょっと笑っちゃったのが、
ある年上の知りあいの発言なんですけれどね、
「六十歳をすぎてから、ちょっとモテたりするとね、
 ああこれは同情なんだと気づくんだよ。
 これは、がっくりするなぁ」
という、なんとも文学的な感慨を語ってました。
ぼくも、その年齢になってますが、
モテたりしてないので、がっくりもしてないです。

で、さて、だ。
こんなことをぐだぐだ言ってるのは、
ぼくが「老人」になることについて、
心配したり、警戒しているから、に決まってる。

どうなるんだろう。
体力はどうなるんだろう。
持久力はどれくらいあるんだろうか。
いまのようなスケジュールで大丈夫なのか。
いろいろと、知っておきたくなったりも
するものなのよ。

でも、心配も、警戒も、準備も、
まだ本気じゃないんだよなぁ。
ずっと、このまんまなんじゃないかくらいに、
なめてるんですよね、まだ。
「当事者」意識が足りないんだよな、
この問題に関してはねー。

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