ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

深いということ。

なにか語られたものに対して、
「深い」と評されることがある。
たぶん、その「深い」という言い方は、
これはこれで流行語のひとつなのだろうと思う。

流行語にも、流行しているのがわかる流行語と、
流行していると思われていない流行語がある。

かつて、テレビ局の人たちは、
なにかと「たしかに」という相づちを打っていた。
ある時期、あっちでもこっちでも
「たしかに」が聞こえたけれど、
いまはまったく聞こえてこない。
「いい感じの」という言い方も、
たぶん広告業界で、ある時期よく耳にした。
「いい」という部分をフラットに発音するのが特徴だ。

まぁ、こういう裏流行語みたいなものも、
気にはなるけれど、あってもかまわない。
ただ、無意識に流行に乗って使っていると、
「裏流行語だって気づいてないのか‥‥」と、
ちょっとなめられるような気はする。
ま、いいや。

で、「深い」も、いま実は流行しているのではないか。
どういうときに使うかといえば、
おそらく、ことばで表現されている意味の他に、
別の意味が隠されているものを、
「深い」と言ってるんじゃないかな?

テレビ番組のタイトルにも使われているくらいだから、
「深い」には価値がある、ということになっている。
「深みのある人だ」とか、「深い色だ」とかね。
逆に、「浅い」は価値がないらしい。
「おまえは浅いんだよ」と言われたら、
叱られていると思ったほうがいい。

ぼくも、そういうふうに思っていた。
ある時期までは。
それは、フランスでのことだった‥‥おおげさだな‥‥。

永田農法」で知られた永田照喜治さんと、
ヨーロッパの農業の視察の旅に行っていた。
フランスばかりでなく、
オランダやドイツを見て回ったのだけれど、
まずは有名な農業国フランスだった。

パリに宿をとって、
朝の食事を早めにして次の場所へと移動。
名門のソルボンヌ大学の近くだったので、
朝早くから学生が歩いていた。
勉強熱心で立派な学生たちだと、ぼくは思ったのだけれど、
永田先生はちがっていた。
「よくないですね、
 こんなに朝早くから学校で勉強なんてね」
え、よくないって言った?
「ああいう人たちは、
 深く掘り下げるための努力をしているんです。
 いくら掘ったって、しょうがないのに。
 毒になるばっかりですよ」
ずいぶんきついことを言うなぁ、と思ったけれど、
秀才というものが時に迷惑だということは、
ぼくもよく感じることだったので、
にやっと笑って、そのまま聞いていた。

やがて、ぼくらはマリー・アントワネットの農園だとか、
ベルサイユ宮殿の畑だとかを見学することになっていた。
どういうふうにわたりをつけたのかわからないが、
お城のなかにある畑を見学する日本人、
というのは、なかなか珍しい光景らしく、
広くもない農園を管理している人たちのほうが、
ぼくらをなにげなく見学しているようでもあった。

永田先生は、そこで作物を指さして日本語で言う。
「ほらね、土を盛り上げて、
 根を深くしようとしてるでしょう。
 野菜の根っこは、別に深く伸びたいわけじゃないのに」
はぁ、なるほど。
「いくら深くしたって、根っこは仕事にならない」
植物の根は、土中の水や養分を吸いとるためにある。
だとしたら、深く伸びることもなくはないかもしれないが、
それは植物のほうに、
よほどの「事情」があるときだけだろう。

そういえば、ぼくはそれまでに、
何度も「理想的な根っこ」を見せられてきていた。
まず、そういう根は、抜くのが困難なのだ。
どうしてかというと、広く細かくふわふわと、
ふんわりした大きな体積の「わた」みたいな状態で、
土の中に広がっているからだ。

根は、地球の中心に向って、
どこまでの深く進んでいく必要なんかないのだ。
ごく薄い層になった土でもあれば、
広く細かくふわふわと張り出していけばいい。
これこそが、その植物の強さと、
なぜか「おいしさ」を保証するものなのだった。

この考えを、そのまま人間にあてはめるのも、
まるまるいいことではないのかもしれないけれど、
朝から勉学に勤しむ学生を見て、
「よくないですね」と言ったことと、
宮殿の菜園が、学者や技術者を総動員して、
ひよわな野菜をつくっていることと、
似ていると言いたくなる気持ちは、
いまになるとよくわかる。
実際、宮殿の作物は、まったくおいしくなかったのだ。

深いところに進みたくなる気持ちも、
深く行くことによって味わえる快感も、
深いところから得る貴重な知識も、
ないわけではないのはわかる。

しかし、食える「おいしい」知恵は、
街にあり、人間の暮らしのエリアにある。
ぼくは、そういうことを教えられたような気がする。
それからだ、「深い」ということばを聞くたびに、
言われていいのだろうか、と疑うようになったのは。
また、「深い」と言われたくてしょうがないような人々を、
なんとなく「よくないですね」と言いたくなったのも、
このころからなのかもしれない、ウソだけど。

このヨーロッパの農業視察旅行から、
10年近く過ぎて、ぼくは吉本隆明さんの
『芸術言語論』に触れることになった。
「芸術の根と幹は、沈黙です。
 さまざまなことばは、枝であり葉や花です」
という比喩によって、いろんなものごとが
見えやすくなった。
根をただただ深くしている表現というものも、
あることはわかる。
しかし、それはひょいっと大地から抜けてしまう、
やっと生きているような「おいしくない」野菜だ。

まぁ、ぼくも、これから「深い」という言い方を
しないということでもなさそうだし、
そんなに「深い」をわるく言うこともないんだけど、
「深い」が偉いわけでもないよ、という考えも、
言っておかなきゃなと思ったしだいです。

「広くて細かくてふわふわ張り出している」
こういうものに、わたしはなりたい‥‥わけだす。

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