ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

女の歌についてのいくつかの断章。

めずらしく、続きを書くことになっちゃったなぁ。
いや、書きたいから書くんだから、
文句言っちゃいけない。

前回は、ある時代から
「男を主人公にした歌がつくりにくくなった」
というようなことを書いたんだっけ。

歌われている男が、
どういう男であればかっこいいのか。
それを、イメージするのがむつかしくなったということだ。

講談風に「高田馬場の堀部安兵衛」だとか、
「忠臣蔵の大石内蔵助」だとか、
「清水の次郎長」だとかを、歌にしている時代には、
それは「叙事詩」として成立する物語だった。
「こういうことがあった、こういう男がいた」という、
ドラマを歌で語ればよかった時代もある。

他にも、「苦労をしているけれどいまに見ていろ」
というような「決意」の男歌もあった。
「命知らずな俺」だとか、
「非情な都会人のおいら」だとか、
「明るいリーダーのぼく」だとか、
いわば、映画の主題歌の形式でつくられる男歌もあった。

愛する女性に去られてしまって、
悲しいというような「ふられ男」の歌も、
ある時代にはけっこう多かったけれど、
これもかなり一時的な流行にすぎなかったようだ。
「悲しき」というようなことばがタイトルにつく、
アメリカ歌謡が流行した時代についての考察などは、
いずれ、専門の研究家がじっくり考えてくれるといいな。

そういう男歌の、なんだかややこしい歴史に比べて、
女歌は、いつも迷わずにつくり続けられてきた。

基本的に、「好きだ」という心を歌えば、
どんな時代にも、女歌は成立してきたように思う。
会いたいでも、切ないでも、うれしいでも、
にくらしいでも、ありがたいでも、疑わしいでも、
「こころ」に思っていることを、歌う。
女歌は、それで成り立つのだ。

男歌が、「好きだ」という心を歌って、
いけないというわけではないのは、もちろんだ。
しかし、男歌が、女歌と同じように
会いたいでも、切ないでも、うれしいでも、
にくらしいでも、ありがたいでも、疑わしいでも、
「こころ」に思っていることを歌っていたら、
それで成り立つだろうか。
「おまえ、恋が仕事か?」というような、
ツッコミを入れられてしまうだろうよ。
男が要求されているのは、
「好きだ」と告げる相手の女に、
じぶんの世界を見せてやることが加わるのだ。
あなたを好きだ、と言いつつ、
空の星を指さして「あの方向へ行こう」と
手をとって連れていく世界がないと、歌にならない。

「俺はうまくいかないバンドマンだけれど、
おまえといっしょにいたい」というのは、
一見、「好きだ」だけを歌っているようだし、
社会人としての資格を持っていないようだけれど、
実は「こうありたい世界」については語っている。
だから、男歌として成立しているのだ。

女歌の目標は、「あなたといること」だけでいい。
さまざまな事情があったりして、
うまくいってない場合が多いけれど、
目的は「あなたといること」である。
その「あなたといる世界」については、
あんまり語るとおもしろくない。
「もしもわたしが家を建てたなら」
というような、あなたといる世界を
具体的に語っているように思える歌もあったが、
よく歌詞を追うと、その「あなた」そのものに、
主人公は会えていないことがわかる。

もともと、男には表わすべき「こころ」は、
なかったのかもしれない。
いや、あってはいけなかったと言うべきか。
会いたいだの、好きだだの、口に出して言うことは、
社会のなかでの男としては、
自重すべきこととされてきた。
男のこころは、背中に表われるのみである。
そして、その背中を読み取って、また女歌が生まれる。

男が、女歌を歌うのは、
決意や物語よりも、
「こころ」をこそ歌いたいからなのだと思う。
歌うのは、「会いたい」だけでいいではないか。
背中だけでなく歌いたいではないか。

男が歌う女歌は、鏡である。
女歌のかたちをとって、男は自らを写し見る。
かつて、ほとんどの女歌に登場する女は、
「女形(おやま)」であった。
だから、男が女歌を歌うのは、あまりにも自然だ。

前川清の歌う女歌は、
男の声のまま歌われる「女形」でないスタイルだ。
「女形」の表現したがる色気を、
すべて削ぎ落として「雄叫び」として女歌が歌われる。
これは大衆音楽界での大発明だったと思うのだけれど、
同時に「誰もやめさせなかったのだろうか?」
という疑問もある。
冗談めかしていえば、
誰も、彼が女歌を歌っていることに
気づかなかったのだろう。
いや、もしかしたら、
「あらゆる女は男であり、すべての男は女である」
という真実が、表現されていたから、
「それでよし」と、みんなが納得したのかもしれない。

徳永英明の流行している女歌のシリーズは、
女の歌手が歌ったというだけでなく、
女の作家のつくったものが目立つ。
徳永英明の女歌は、「男も女も、ほんとは同じ」という
共学の学校育ちの人々の歌い方のように思える。
そして、その考えは、
曲や詩をつくった女たちの考えとも近いのではないか。
これはこれで、現代の「女形」の方法かもしれない。

なんだか、まだぐだぐだと言いそうだけれど、
また眠くなったし、まだ他にも仕事があるので、
もうやめるね。

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