ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

押されてへこんだようかんから、あなたへ。

「作用と反作用」って、もう小学校でも習うけどさ。
なにかを指で押したら、押したのと同じだけの力が、
なにかのほうからもかかってくるってことだろ。

ようかんみたいにやわらかいものを押すとさ、
ようかんのやつ、いや、まんじゅうなんかも同じだけど、
へこむじゃない?
だから、ようかんから、おれのほうには、
なんの力もかかってこないような気になるんだよね。
でも、弱いけど、へこんだようかんの側からさ、
おれのほうに、力はかかってきてるわけさ。
「作用と反作用」についちゃ、例外はないんだよね。

ようかんから、おれへの反作用。

しかし、それを実感するのはなかなかむつかしいやね。
おれが一方的に、ようかんを押してるっぽいじゃん?
ようかんを押すときにさ、
こっちの手に寒天を持ってね、
それで押してみたら、ようかんからの反作用がわかるね。

いや、なんでそういうことを言い出したかっていうとね。
とにかく、吉本隆明さんの会話のなかで、
「自然に働きかけるということは、
 自然から働きかけられるっていうことなんでさ」
ということばが、ほんとによく出てくるんだな。
あらゆる場面で、それを意識しているんだろうね。

それは、吉本さんが、
マルクスを読んでいて、
「そうだよなぁ!」と、
講談本風にいえば、
跳び上がって膝を打って深く嘆息したことらしいんだ。
「作用と反作用」と言ってもいいし、
変えたら、変えられていると言ってもいい。

「殴ったら殴られるぞ」なんていうと、
対等な力関係っぽいからわかりやすいんだけどさ。
「おれの指とようかん」なんかの場合もそうだけど、
働きかける対象が黙っていると、
あっち側からの力が見えにくいんだなぁ。

山を削って川の流れを変える、なんて場合、
さぞかし、変えたせいで変えられるものを
想像して計画したり工事したりするんだろうけど、
小さそうなことは、
「なにか変えても、こっちは変えられない」と、
思っちゃいがちなんだよね。
早い話がさ、「赤子の手をひねる」のに、
赤子の側から、こっちへの力が想像できないだろう?
でも、あるんだよ、それは。

暴力でなにかを弾圧したら、
その暴力の分だけ、
弾圧した側に見えない力が加わる。
パワーを使って、無理なことをしたら、
その無理は、かならず返ってくる。
パワーを持ってる人には想像できないんだよねぇ、
そういうことが。
また、パワーを持ってない人にも、
そういうことが信じられないんだなぁ。

だけど、事実は
「変えたら、変えられる」んだよ。
これは、ほんとなんだ。
働いたエネルギーは、
どこかに消えてしまうということはないんだな。

子どもに理不尽な怒り方をした親には、
子どもの側から、なにかの力が加わってるんだ。
そして、その力の分だけ、親は変形しているんだよ。
わかんなきゃわかんないでしょうがないけど、
これを、たぶん吉本さんは
「生きる態度」にしてきたんだろうな。
いや、吉本さんばかりでなく、
ぼくの好きな人は、そういうふうに生きてる気がする。

だから、なにか働きかけるということに、
よく言えば慎重になるし、
なにかと全体的に謙遜になるのかもしれない。

イマジン、想像してごらん。
あなたがようかんを押して、
ようかんがへこんでいるなりに、
あなたに力を加えているところを‥‥。

イマジン、想像してごらん。
あなたが赤子の手をひねっているところを。

イマジン、想像してごらん。
あなたが調子のいいことを言って、
誰かのこころを変えているところを。

イマジン、想像してごらん。
イマジンとか言っちゃって、
誰かになにかを想像させたことが、
どっとこっちに押し寄せてきた状態を。

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