ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「おもしろいもの」はいっぱいある。

「おもしろいものがない」であるとか、
「おもしろくなくなった」というようなことを、
よく人は言うものだ。
人が言う、というよりは、
メディアが言うのかもしれない。
実は、ぼくもさんざん言ってきた。

しかし、それは、
「あたらしいおもしろいものがない」
ということなのではないだろうか。

「おもしろい」とか「うつくしい」とか、
人びとが価値を感じるものについては、
そんなに大量生産品のように、
いくらでも「あたらしい」ものをつくれるものではない。

歴史的に知られた芸術家の作品などでも、
ぜんぶで何点あるのかわかっていて、
それは数えられるほどでしかない。
あたりまえのことだ。

それは絵画にしても、彫刻にしても、
音楽にしても、建築にしても、発明にしても同じことで、
天才と言われる人物でも、
多作で知られる作家でも、
次から次に「あたらしいおもしろいもの」を
生みだすことなどできなかったはずだ。

質の高い「おもしろいもの」を、
多作できる天才がいて、
それを大量に複製できるシステムができて、
人々は、「おもしろいもの」が
いくらでも手に入るのではないかという気になった。
昔々の人ならば、うわさで聞くのがせいぜい、
というような「おもしろいもの」を、
いま生きている人たちは、
「ああ、あれね」というくらいに軽く消費できてしまう。

たとえば、日本の明治生まれの人にとって、
知っている歌はどれくらいあったのだろうか。
江戸時代の人は、どれくらいの画を見たろうか。
鎌倉時代の人は、どれだけの仏像を拝んだか。
‥‥いや、一生のうちに出合った人の数だって、
ひょっとしたら数えるほどだったかもしれない。
それで、足りていたんだよ、きっとね。

で、さらに言えば、
人が一生のうちに必要としている歌の数とか、
誰もが最低これだけは見ておきたい芝居の数とか、
そんなものは、ないわけだ。
だけど、「あるんだったら、出せ」とばかりに、
ぼくらは「おもしろいもの」を欲しがるんだなぁ。
しかも、「それは、もう見た」とかね、
「それは知ってる」とか、「飽きたよ」とか、
ちゃんと味わったこともないものについてまで、
「チェンジ」を要求しちゃったりする。

「あたらしい」「おもしろいもの」を、
「あたらしい」「おもしろいもの」を、
「あたらしい」「おもしろいもの」を、と、
それが自然な望みであるかのように欲しがってしまう。
ぼくは、そのことを否定するつもりはない。
いつまでも「あたらしい」ものが出てこないということは、
社会が死に近づいていることだものね。
だから、「あたらしい」「おもしろいもの」を、
おおぜいの人が欲しがり続けているというのは、
こりゃもう、しょうがないことだ。

しかし一方で、
あたらしくない「おもしろいもの」を、
拾って、手に取って、しみじみ見て、口に入れてみて、
大事にしまって、また出して、匂いを嗅いで、
撫でて、温めて‥‥というふうに、
もっともっと味わいつくしてみたら、と思うのだ。

例えば、
「クラシック」と呼ばれる音楽は、
基本的には増えていかないけれど、
それを解釈したり、楽しんだりし続ける人がいる。
「ジャズ」は、いつごろからか、
全集が出せるような納まり方をしていった。
「ロック」というジャンルの音楽にしても、
次々に生まれているような時代は終わって、
「クラシックロック」というまとまりができあがった。
考えようによっては、これだけの音楽を、
まるまる、しかも何度でも楽しみ続けられるのだ。

同じように、
絵画についても、演劇についても、映画についても、
これまでに「おもしろいもの」として、
つまり名作として存在していたものは、
どこにも逃げずに、人々に出合うのを待っている。
「あたらしい」わけではないけれど、
もちろん「不良在庫」なんかではない。
そのうちのひとつと面と向うだけで、
たいした感興が生まれるかもしれないのだ。
そこでの出合いこそが、
その人にとっての「あたらしい」でもあるわけだ。

ぼくが、こんなにだらだらと書いてきたことは、
たった4文字で表現されている。
「温故知新」、古きを温めて新しきを知る。
ああ、この言葉そのものが、「古典」だったというわけだ。

「あたらしいもの」は、「すでにあるもの」のなかに、
ひっそりと隠れている。
ぼくらは、「おもしろいもの」が、
こんなにいっぱいあるのに、いつもすっかり忘れている。

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