ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「情」と「理」と。

何十年も前のことだったけれど、
ある人に、ぼくは、
「あんたには、愛はあるかもしれないけれど、
 情がないような気がする」
と言われたことがあった。
もともと、愛だの情だのということばは、
くっきりしたかたちを持った科学用語ではないから、
ぼくが、ほんとにそういう人間だということは、
証明もできないし、反論することも無理だったと思う。

そのときのぼくは、
「ああ、そうかもしれない」と、妙に納得していた。
情というと、なにか浪花節だとか、
演歌だとかをイメージするし、
「情に流されちゃいけない」という言い方も、
よく耳にしていたものだから、
「情がない」のは、望むところだと思っていた。

そうかぁ、情がないような気がするのか。
でも、愛はあるのか‥‥。
ひとりの青年としては、それで満足だ。

それでも、どういうわけなのか、
ぼくはずっと「情がない」と言われたことについて、
忘れられないでいた。
つまり、気にしていたのだった。

昔ながらの、浪花節な「情」はいらないけれど、
ぼくなりの「情」というものが、
ほんとうはあるのではないか、と思うこともあった。
あるいは、「情」に流されないことで、
流された場合よりも、周囲を幸せにできたということも、
経験してきたような気もする。

ちょっとずつ、まっすぐ歩いたり、曲がったり、
頭をぶつけたり転んだりしながら生きてきて、
じぶんのことをだんだん知るようになってくると、
ぼく自身の成分は、実はほとんど「情」で出来ていて、
その舵をとるときにだけ「理」を用いているのではないか、
と思うようにもなってきた。

ただ、まだいまでもずっと、「情」について
考え続けているのは、たしかなのだ。

だいたい、誰が読みたいと言ったわけでもないのに、
この『ダーリンコラム』という場で、
こんなことを書いているのも、
ぼくがそれについて、ぐだぐだ考えているせいだ。

あ、ここで書くきっかけ、というのがあったんだった。
最近、ことあるごとに語っている
計るだけダイエット」の過程で思ったことだ。
「計るだけ」とはいえ、ダイエットの方法だから、
ただ体重計に乗っているだけで、
ダイエットがうまくいくはずはない。
体重計が伝えてくれる数字を読んで、
じぶんの体重を増やしたり減らしたりする原因を
イメージするということが本題なのだ。

ダイエットの基本は、
からだが必要としているカロリー以上の
カロリーを摂らないこと、これにつきる。
そのことを知っても、実行するのは、
あんがいむつかしい。
そのむつかしいことを、
「おもしろい」という興味に変換すればうまく行きますよ、
というのが、「計るだけダイエット」なのだろう。

で、これがわかって、実行するのはおもしろい。
食事を意識的に少なく食べているだけで、
ダイエットはいい感じで成功曲線を描きだす。
これをやっているのが「理」だ。
やったほうがいい理由は、いくらでもあるし、
どうしてやるか理解するのも「理」の世界なのだ。

「わたしの健康」のためにやっているのだし、
「わたしが健康であることは、
 家族や周囲の幸福にもつながる」というわけだ。
しかし、みんなのためになるこの「理」は、
知らず知らずのうちに、「情」を失わせる。

「うまいものが食べたい」であるとか、
「どうしても食べちゃうよなぁ」というような、
しょうがない感情を認めないのは、まぁ、いいのだ。
しかし、そういうことだけじゃない。
食べてることには、「たのしい」という「情」があるのだ。
にこにこしながら食べていても、
ダイエットの「理」を意識しながらそこにいるのは、
食べること自体の「たのしい」という情を、
やっぱり減らしてしまっているにちがいない。

健康のために、うまくダイエットしてるのは「理」だ。
それは、家族や周囲に対する「愛」のおかげでもある。
そして、食べるときの「たのしい」の「情」を、
もっとじょうずに感じられたり、
感じさせたりできていいれば、
ほんとはいちばん最高なんだろうなぁ。
食を制限している人って、
たぶん、周囲にとってはつまらないんだと思うよ。
うまそうに、いっぱい食ってる人って、
見ているだけでうれしくなるものね。
そこらへんに、また「情」ということを
思い出すヒントがあったわけ‥‥。

まぁ、ぼく個人の性質の問題なので、
読んでくれてる人は、つまらないかもしれないけど、
書きたかったという、ぼくの「情」があったもんですから。

関連コンテンツ

今日のおすすめコンテンツ

「ほぼ日刊イトイ新聞」をフォローする