ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

『喩としての聖書』のこと。

人はじぶんのことを棚に上げて、
他人の欠点やら悪いことをせめたてる。
じぶんの優位なところと、
他人の劣ったところを比べたりもしたがる。

あの人も、あの人も、あの人でさえ、
そしてじぶんも、そういうことをしている。
じぶんもそうだということは、
人間、誰でもが同じようなものだということではなく、
人間というものが
普遍的に「そういうもの」だということだ。
あえて言うなら、顔の真ん中に鼻があって、
その上にふたつの目玉があってというのと同様に、
人間というものは
「じぶんを棚にあげて、他人のあらを見る」
という属性を持っているというわけだ。

こういうことは、2000年も前に書かれた
聖書「マルコによる福音書」の作者も気づいていて、
それを記している。
このような思想は、2000年も経ったいまでも、
古びることなく生き生きと通用している。
そういう、2000年も持ち続けるような思想は、
もうそれだけでたいしたもんだ。

‥‥というようなことは、
ぼくがひとりで考えたことではなく、
吉本隆明さんが『喩としての聖書』で語ったことの
ほんの一部分を、ここに置いてみただけのものだ。

このあたりの考えは、もっと昔に、
『言葉としての思想』という本で読んでいた。
しかし、そのもとになった講演の音声を、
吉本隆明五十度の講演』で聴くようになって、
ここがすごい、ここがおもしろい、ここはびっくりだ、
というような発見が、聴くたびに増えていった。

「じぶんを棚にあげる人が、ものすごく多い」のでなく、
「人間はじぶんを棚にあげるものなのだ」
という人間理解の深さ、というところに、
ずいぶんいい年になったぼくは、やっと気づいた。
 
その後、「ほぼ日」でも、
この『喩としての聖書』の講演は、
フリーダウンロードして聴けるようにしたけれど、
ぼく自身が、その後も何度も聴いている。

本題の「喩」について語っているところについては、
時間をおいて聴くたびに、
わぁっと声をあげたくなるほどおもしろくなっている。
1977年の夏に、たぶん多くはない聴衆を前に語った話が、
いまのぼくの耳から、こころへ、
ずんずんとしみ込んでくるというのは、
なんとも不思議で、愉快な感覚だ。

いま、ちょうど雑誌『ブルータス』といっしょに、
吉本隆明さんの特集をつくっていたところなので、
なおさらに、気持ちがそっちに向いているのかもしれない。
でも、もう少しいろんな人と相談して、
『喩としての聖書』を、
再びフリーダウンロードの素材として、
「ほぼ日」のどこかに置こうと思っている。
たった一度の講演の音声記録が、
こんなにいろんなことを考えさせてくれたり、
応用されたりできるんだというぼくの驚きを、
何人、何十人か、何百人かの人と、
共有してみたいのだ。

いますぐに聴いてみたいという方は、
ぜひ、『吉本隆明五十度の講演』をお買い求めください。
こう言うと宣伝かぁと思われるかもしれないけれど、
ただ宣伝というわけでもないんだよなぁ。
聴いてもらいたいということと、
売ってるものだから買って欲しいということと、
その両方なんです‥‥つまり、宣伝か。

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