ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

難問好き。

世の中には、「難問好き」という人たちがいる。

「狭き門より入れ」という有名な警句もあるけれど、
試験問題なんかを解くときには、
「簡単な問題から済ませていきなさい」
なんてことも言われたものだ。

ふつうの人は、
目の前に「難問」が現れたときには、
うわぁ、できるものなら逃げ出したいとか
思うものなのではなかろうか。
そんな「難問」にかかずらわってなくても、
生きていけそうなら、解こうとしないほうがいい。
そのほうが生きやすい、とも言えるだろう。

それでなくても、人生には「問題」が付きものなのだ。
ひとつずつ、解かざるを得ない「問題」を、
人は日々解きながら生きているのだ。
「難問」などに目の前に立たれて、
行く手をふさがれてしまったら、
生きていくためのふつうの「問題」を
解いていられなくなるではないか。

しかし、いるのだ「難問好き」という人たちは。

解けそうもないように見える問題。
しかし知力体力の限りを尽くしたら、
解けるかもしれない問題。
そういう「難問」を見つけると、
解かずにはいられなくなってしまうものなのだ。

ぼくは、じぶん自身のなかにも、
ときおりその「難問好き」を
発見することもあるのだけれど、
じぶんでない人のなかに見つけることのほうが多い。
そして、ぼくは彼らを憧れの目で見てしまうのだ。

「難問好き」たちは、なにげなく「難問」にすり寄る。
肩をいからせたり息を荒げることもなく、
もしかしたら笑顔で、「難問」を抱き寄せる。
解いて見せると宣言するでもなく、
解かなければ誇りを失うと緊張するのでもなく、
「難問好き」たちは、「難問」を見つめ、
「難問」を撫で、「難問」を抱きしめるのだ。

解けなかったら、膨大な時間と労力がムダになる。
しかし、「難問好き」はそんなことを想像もしない。
だって彼らは、「難問」が好きなのだから。
そして、これまでも、いつも、
「難問」はいつのまにか解けていたのだ。

「難問好き」たちは、「難問」から逃げない。
「難問」が好きなのだから逃げる必要もないし、
逃げるなんて、もったいないのだ。
「難問」は魅力的で、
「難問」は、めずらしいかたちをしていて、
「難問」は、ピカピカ光っているものらしい。

達人と呼ばれている人たち、
とてもモテたりしている人たち、
勝負師と言われる監督やプロデューサー、
企業を成功に導いてきた経営者たち、
あの人、この人、あのスター、あの選手‥‥。
たいていは「難問好き」だと、ぼくは知っている。

ふつうの人は「難問」と格闘しようとするが、
「難問好き」は好きな「難問」とつきあおうとする。
うれしそうに、「難問」を愛してつきあう。
そのうち「難問」のほうから、自然と解けていく。
そうやって、彼らはたくさんの「難問」を、
経験してきたのだ。

さらに、ついでのように言うことではないのだが、
(それはとても大事なことだから)
すごい「難問好き」は、
「難問」以外の、ふつうの「問題」もけっこう好きで、
ひまさえあれば、つきあっている。

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