ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

大きく強くないものの豊か。

資本主義というものの誕生日が、
いつなのかはっきりしたことは言えないけどさ。
19世紀とかくらいに、ま、赤ん坊として生まれたわけだ。

生まれたばかりのときは、
それこそ、よちよち歩きだったろうけれどさ、
だんだんと背丈も伸びていって、
知恵もつけていって、
野生の少年みたいにやんちゃに育っていった、と。
ぐんぐん筋肉もつけました。

道具やら機械の使い方もじょうずになります。
組織としての動きやらも、できてきます。
基礎体力もすっかりついてきて、
とんでもなく大きくなりもしました。
これが、いつごろなのかは知らないけど、
とにかく青年になり大人にもなったわけだ。

戦争もしたよ、陰謀やら、ずるいことも考えたよ。
大人のつきあいというやつも、ずいぶん憶えてね。
だんだん豊かにもなりました。
資本主義が生まれたころに比べたら、
ほんとにたいへんな成長ぶりだったかもしれない。

背丈はどこまでも伸びると思ったね。
それこそ雲を突き抜けて、
月まで火星まで手が届いたことも知ってるよ。
人間というやつが細胞みたいに喩えられるなら、
細胞のひとつひとつに栄養が行き渡ったかもしれない、
ぶくぶく肥えちゃうくらいにね。
巨大な人間になった資本主義には、
できないことなんか何もないとさえ見えたよ。

筋肉がじゅうぶんに発達したり、
からだ全体が巨大になったばかりじゃない。
神経網も、圧倒的に張り巡らされたよ。
この神経網のおかげで、
動ける速度も、どんどん速くなっていった。
からだ全体の成長が、
まぁこんなものかなと思えたころに、
脳やら神経網の大発達があったのかもしれない。

働き盛りのような時代が、
どれだけ続いたのかなぁ。
大人になって、大きくなって、豊かになって、
利口になって、すばやくなって、
このままどんどん進化する‥‥はずはないよなぁ。
と、うすうす誰もが思いはじめたころが、
「いま」なんじゃないかなぁ。

いろいろと、金属疲労というか、
ガタがきはじめてるっていうことは、
あるんだろうなぁ。
生きものなら、そうなるよね。
で、ふと思ったわけだよ。

あ、いまは、
「資本主義の厄年」なんだ、と。

情報も集まる、いろんなことはわかるようになる。
人々の信頼もできてくる。
しかし、体力はじんわり落ちている。
いままでうまくいっていたやり方の、
ちょっとしたひずみがでてくる。
男のいちばん大きな厄年というのは、
数え年の42歳だ。
42歳くらいのところで、
「無理しながらでも成長していく」という
体力勝負の方法を、切り替えなくてはならなくなる。
勝ち勝ち勝ちで進んでいくよりも、
負けを勘定にいれながらやっていくようにしないと、
厄年から後を生きていくのはむつかしい。

資本主義が厄年だと思ったら、
先に厄を済ませた男の先輩として、
いろいろ言ってやれることがあるような気がするよ。
ぼくばかりじゃない。
これまでの歴史のなかで、
どれだけの偉人、賢人が、厄年以後の
「成長をしない年月」の生き方を説いてきたことか。

19世紀くらいから、
それなりにながくがんばってきた資本主義が、
中年、初老としての時代を、
どうやっていくのか、これが問題なんじゃないか?
問題というより、興味か。

産めよ増やせよ、
どんどん大きくなれ、
力をつけろ、強くなれ、
なぎ倒せ押し倒せ、
というような若い戦士みたいな生き方は、
たぶん、厄年以降の資本主義には合わない。
(ああ、そういえば、こういう厄年の直前に、
 バイアグラが発明されたというのは、
 ずいぶん象徴的な事件だったのかもしれないな)

大きかったり、強かったりしなくても、
たのしいものはたのしいし、
豊かさはいくらでも探せるのではないだろうか。

大きくもないし、力も弱いけれど、
老人や女たち子どもたちは、
大人よりもたのしんでいられるかもしれない。

せっかく歳をとったのだから、
ぼくも「成長しないものの豊かさ」について、
たくさん考えて、遊んで、
厄年になったばかりの資本主義に対して、
「心配することはないよ」とかね、
教えてやりたいような気がするよ。

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