ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

現実にないけれど、あることになってる世界。

担保がないと金を貸さない銀行に対して、
「担保があるくらいなら、
 おまえんとこなんかから、金借りるもんか」
という悪態があった。
いや、実際にじぶんで耳にしたわけじゃないけれど、
そういう意見が、あったよなぁと思ってね。

あらゆる場面で担保ってものが求められていたら、
きっと、いろんなものごとが停滞するだろうなぁ。
そういうことは思うんだけどね。
見えない可能性に投資する、なんてことも、
ありえないってことになっちゃうよね。
そういうことは、わかる。

担保とは、またちがうんだけど、
かつて世界の経済は「金本位制」だったんだよね。
貨幣ってものを、無限につくりだすわけにはいかなかった。
そりゃまぁ、そうだろうなぁ。
いくらでも金(カネ)を印刷していいんだったら、
世界が偽札合戦みたいになっちゃうだろうからね。
金がある分だけ、お札をつくるってことになってた。
だから、お札はすなわち金だったわけだよな。
「兌換紙幣」といのは、金に交換できるよという意味だ。
そういう意味じゃ、お金ってものも、
かつては金という目に見える価値と、
釣り合いがとれていたとも言える。

で、その「金本位制」にも、
さまざまな不都合があったというわけで、
「もう終わりにするぞ!」ってことになったんだねー。
そんなに昔のことじゃないんだ、これが。
1971年のアメリカで、
ニクソン・ショックと呼ばれる経済危機があってさ、
そこから、もう、「兌換」は停止だよ。
つまりは「金本位制」はお終いになった。
他の国も、追っかけるように「金本位制」をやめたからね、
お札は、もう、現実の何の価値に対応しているのか、
見えなくなっちまった。
「変動為替相場制」っていうらしいけど、
もう、おれには説明しきれないよ。
ここまで言ってきたことにしても、
専門家からしたら、文句言いたいこともあるんだろうけど、
まぁ、わかる範囲でこれくらいは言ってもいいか、
ということだけ、遠慮がちに言わせてもらったつもりさ。

ほんとに言いたいのは、この先なんだ。

世界のみんなが、集めたり、貯めたり、使ったり、
奪ったり、増やしたり、誤魔化したりしている
金(を中心にした経済)ってものが、
現実のなにかに、
ちっとも対応してないってことが、
この世界の価値の軸になっちゃってるんだよなぁ。

仮初めにも、金といえば、金だ。
「世の中すべてが金じゃないんだよ!」
と叫ぶせりふでも、
「世の中の、大部分は金だ」と語っているわけで。
それくらいのでかい価値が金なんだな。

で、そのでかいでかい金を中心とした体系が、
担保のないもの、というか、
現実のなにかに対応しなくてもいいものらしい。
これは、すごいことでさぁ。
あらゆるものごとに、
大きな影響を与えると思うんだよね。

いま起こっているあらゆることが、
「現実に対応してなくてもオッケー」
に、なっているのかもしれない。
その象徴が、コンピューターグラフィックスを使った、
映像の表現だよね。

人間の目に見えることとしては、ありえない。
しかし、映像表現としてはありえる。
そんな画面だらけになっている。
実際には存在できなくても、
映像としては成立するものだから、
脳では、その情報は「ある」の一種として
処理しているということなのかな。

昔ね、ものすごくギターを速く弾く男がいたよ。
耳でコピーするのもむつかしいくらい速弾きなんだ。
でも、それは、指で弾いていたものだから、
現実に対応しているんだよね。
でも、コンピューターに、
合成したギターの音を数字として打ち込んで、
とんでもない速弾きの音楽もつくれちゃう、いまは。
人間には無理だという速さで弾く、ギターの音楽ね。
それは、音楽として「ある」ことになる。
でも、現実には「ない」ものだろう?

重さもない、触れられない、計れない、でも、存在する。
そういうものだらけになっていく。
数字の操作で、現実にはありえないたいていのことが
できてしまって、あることのようにふるまう。
すごいことになっちゃってるよなぁ。

担保もいらない、貴金属としての金の保証もしない、
ひたすらに数字が数字を決定していく経済のなかに、
ぼくらの世界は漂っている。
よくなんとかなっているものだ、と感心しつつ‥‥。

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