ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

恋愛もの。

思いつくままに、
どこに着地するのかのあてもなく、
書きはじめてみる。
恋愛小説だとか、
恋愛映画だとか、
ラブソングだとか、
そういう恋愛ものっていうのは、
とても不思議なものだ。

どっかの男が、どっかの女を好きだとか、
どこだかの女が、どこやらの男を好きだとか、
ほんとはね、どーーーーーーーでもいいことだ。
その当事者だけに、大事なことなのだ。

それどころか、恋愛ものの主人公たちが、
その恋愛を成就させるためには、
傍迷惑なこともおおいにある。

周囲の誰もが認めているような男女の間には、
恋愛ものはありえない。
ナイスガイと、ナイスレディが、
みんなに祝福されて、結婚しました。
その後も幸せに暮らしましたとさ、というのは、
恋愛ものにならないのだ。
本人たちが、どんなに大恋愛だと言い張っても、
それは、誰にも読まれない恋愛だ。

成就させようのない恋愛を、どうするのか。
反対されている恋愛を、どうすればいいのか。
恋愛の過程で出合う不幸を、どうしたらいいのか。
それに、その恋愛がもともとまちがっている!
という場合だってある。

さらに、なによりも、
誰かさんと誰かさんの恋愛は、
世界の愛やら平和やら、
社会の発展ためなんかではなく、
実にまったく二人のためだけのものなので、
ほんとうに真剣に、その恋愛を
応援する人なんかいないはずなのだ。

いや、その言い方はちょっと失礼かもしれないな。
少し言い直すと、
恋愛というのは、当事者の二人にとってのみ
深刻でしかも輝かしいものなのであり、
それ以上に皆様方の賛成やら応援やらを
期待してはいけないということなのだ。
誰にも賛成されなくても関係ねぇぜというのが
恋愛の仁義だろうし、それ以外はありえない。

地球にやさしい恋愛だの、
社会のための恋愛だの、
未来を明るくする恋愛なんてものが、
あるわけはない。
余計なおまけを望んだり乗っけたりするような恋愛は、
「事業」か「政治」か、
つまりは「政略結婚」のヴァリエーションだ。

で、とにかく、恋愛そのものは、
みんなにとっては、
素晴らしくもなんともない。
これが、基本的な真実だ。

それなのに、どうして、
どうでもいい他人の恋愛の話を、
小説で、映画で、芝居で、歌で、
人というものは、見聞きしようとするのだろうか。

実をいうと、ぼくは、恋愛小説というものを
ほとんど読んだことがなかった。
恋愛映画も、観ようと思って観たことはなかった。
強いていえば、歌だけはラブソングが大好きだった。
なんだろう、この距離感は。
いつかいつかと思いながら、
『源氏物語』も、そのままになっている。
読みはじめたら、またちがった興味がわくのかなぁ。

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