ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

やっと実感できそうな「消費」の重要。

自動車が売れないという話は、
これまで、こんなふうには、なかった。
どうしたって、日本でいちばん大きな企業は
トヨタなんだし、魅力のないクルマや、
品質のよくないクルマは売れなくても、
いいクルマは売れるんだ、と、
みんなが思っていた。

クルマが売れないということをニュースで知った人は、
「クルマまで‥‥」と感じたのだと思う。
これまでにも、売れなくなったといわれるものは、
いくらでもあったからだ。
でも、クルマは売れてるよね、と信じていたのだった。

クルマまで売れなくなることがある、
と知ったことで、ようやく、
実感として「考え方を変えなきゃ?」と思うようになった。
いや、「なった」んじゃなくて、「なる」のかな?

学問としてだとか、理論として語られていたのは、
売れる売れないという「消費」がなければ、
「生産」は成り立たないということで、
そんなことは誰だってわかっていた。
しかし、そのことが実感としてわかるということは、
まったく別のことだ。

どうやったら上手につくれるだろう。
どう工夫したら、もっと効率的につくれるだろう。
どんなことをしたら、もっとたくさんつくれるだろう。
そういう研究や、改良は、ずっと続いてきた。

買ってもらわなきゃ、つくっても意味がない、と、
わかっていたって、つくる側の工夫は続いていく。
そういうものなのだ。
これはもう、日本人の歴史的に得意な
稲作の工夫と努力みたいなもので、
積み重ねていく技術や方法の改善を、
止めるわけにはいかなかった。
しかも、つくれば、誰かがほしがってくれた。
あれば、売れる。
なければ、売ることもできない。
上手につくろう、効率よくつくろう、いっぱいつくろう。
そういう時代に、実感的な疑いはなかったのだと思う。
これだけおおぜいの人間が働いているんだし、
生産を調整しなきゃならないような事態は、
(あるかもしれないけれど)あるわけがない。
セールスマンの数だって半端じゃないんだから、
売れなくたって、売ってくれるだろう。

‥‥実際、その通りに考えていたというわけじゃないが、
実感的な、気持ちのありようとしては、
そんな感じだったんじゃないだろうか。

生産の現場での工夫について、
実際の話を聞いていると、頭が下がる。
さまざまな工夫をして、
例えば、1秒、効率的になった、
例えば、1円、安くつくれるようになった、
例えば、1工程、手間がいらなくなった
‥‥なんてことが、ずっと続いてきたわけだ。

こうした1秒や1円の工夫のおかげで、
いいクルマを効率的にたくさんつくれるようになった。
そのことの、うれしさは、
とても実感しやすいものだったにちがいない。

しかし、なんと、理屈ではわかっていたけれど、
売れなきゃ、どうしょうもない。
がんばって売る、というにも限界がある。
だいたい、欲しがられていたのか?
一部の生産ラインを、止めるらしい。
働き手も、仕事がなければいらなくなる‥‥。
そんな状況が、現実に目の前に伝えられると、
これまでやってきた実感というイメージが、
カシャカシャっと音を立てて、壊れちゃうわけだ。

あんなに工夫して、必死になって稼いできた
1秒1秒は、積もり積もって大きくなって
‥‥在庫のなかに眠っている。
買ってもらえないクルマのなかに、
努力の1秒や工夫の1秒が、無駄になっているのか。
そんな、これまでに味わわなくてもよかったような気分が、
ここにきて、生まれだしている。

いままで、あれが売れないこれが売れないという話は、
いくらでも聞いてきた。
それでも、「生産」が圧倒的に
「消費」より重要なんだというイメージは、
変わってはこなかったと、ぼくは思う。
それが、とうとう、
日本一大きな、重要な、勝ち続けてきた
自動車というものに「売れない?」が襲いかかったとき、
はじめて実感としての変化がはじまるのだろう。

つくる場所での、精いっぱいの工夫や努力を、
ぼくは軽んじているつもりはない。
しかし、そこでこれまで注いできた情熱と、
同じくらいの分量の情熱を、
「人間は、どういうことがうれしいのか」
「人間は、どういうものなのか」
「人間が、いやだと思うのはどういうことなのか」
というようなことを考えるのに、振りむけていったら、
理論ばかりでない実感としての、
消費の経済が見えてくるのではないだろうか。

ぼくが高校生くらいのときに、
作家の吉行淳之介さんが、なにかで語っていた。
「お妾さんが、黒塀の家に住んでいて、
その家は、汲み取り式の便所」というような贅沢について。
子どもごころに、作家というのは、
なんだかずいぶんおもしろいことを考えるものだなぁ、
と思って、いまでも憶えているのだけれど、
この勝手で自由でしょうもない想像力と、
1秒も無駄にせずに「生産」をがんばろうという姿勢と、
おそらく、ほんとうはどっちも大切なはずなのだ。

でもねー、一所懸命に「生産」をしている場で、
「黒塀の妾宅の汲み取り便所」についてなんてことを、
言えるムードはないものなぁ。
まぁ、別の場所で考えて、合流させるんだろうか。
でも、同じ人間の頭の中に、
共存できるイメージだと思うんだよなぁ。

「ほぼ日」をはじめたころから、
なにかというと「消費のクリエイティブ」ということを、
言いまくってきたぼくなのだけれど、
言いまくってきたということは、
じぶんでもほんとうに身に付いていないということだ。

モノでもコトでも、生み方、生む方法と、
育ち方、育てる方法と、
使い方、使う方法と、
さらにいえば、捨て方、消す方法にいたるまで、
ぐるぐる循環するイメージの、
ぜんぶの場面に工夫も努力も必要なはずなのだ。

これだけは大丈夫だと思われていた、
日本の代表的な自動車産業に、
大きな転換点が見つかりそうだという時代に、
やること、やれることはいっぱいありそうだ。

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